日系移民コンディションⅠ
東京在住、南 瑠霞です。
実家が、和歌山県本州最南端の町、
串本町にあります。
串本町田並という地区に、
たぶん江戸時代から暮らしていた村上家。
それが、我が家のルーツの一つです。
その流れをくむ、私の祖父、
村上家の次男坊、安吉は、
明治のころ、オーストラリアに移民し、
北部の街で、暮らしました。
その安吉が、
オーストラリアに暮らす日系人たちの先達として、
注目を集めているのだそうです。
日本人の流れをくむ、
オーストラリア在住の人々(日系人)にとって、
安吉は、オーストラリアの歴史に残る、
がんばった日本人(日系人)の先輩の一人のようです。
オーストラリア北部の街ブルーム。祖父の名を残した道の看板。
Photo by 金森マユ
(この写真のマザーは、こちら→http://aboutmurakami.wordpress.com/2011/07/08/entrance-point/)
2月 オーストラリアから取材に来てくれた
フォトジャーナリスト金森マユさんが、
英語のブログで我が家のルーツについて、
紹介してくれました。
http://aboutmurakami.wordpress.com/2013/02/20/252/
彼女もまた、
オーストラリアに住む日本人の一人であり、
日本を背景にオーストラリアに旅立ち、
そこに根付いた、多くの先輩たちの歴史をひもときながら、
様々な写真を撮り続けています。
そんなマユが、レポートのテーマに選んだのが、
私の祖父 村上安吉。
そのルーツをたどって、和歌山に来て、
安吉の娘である、年老いた私の母の話を聞き、
うちに残されていた、なんの整理もされていない、
古い何百枚という写真を、1枚1枚丁寧に見て、
調査資料として、取材して帰ったのです。
我が家の最寄駅「田並駅」まで来てくれた
金森マユさん。Photo by 南 瑠霞
マユは、安吉が、明治・大正時代、
オーストラリアで、そして日本に帰国した際、
撮影した数々の写真を、
大変貴重なものだと言っています。
中には、オーストラリアや、串本町の、
博物記録に残せるものも入っていそうだとか。
日本とオーストラリアの、当時の様子が、
これほどまでに写真に残されていることも、
珍しいうえ、
安吉は、写真家としても、
有意義な作品を、我が家に残しているんだそうです。
そうした歴史や写真に心得のない私には、
我が家にある古ぼけたフォトは、
まかり間違えば、まさにゴミ同然!汗
ほこりをかぶって、
捨てようかどうしようかと思い悩む種ほどのもの。汗汗
ここに、そんな価値があろうとは、
ついぞ、この2013年2月まで、
実感を持ったことはありません。
ルーズにも、
完全に絶対!!片づけられない症候群の一人であろう母は、
当然ながら、この写真も、
ただただ、肉親のものであり、
みんなの顔が載っているからという理由だけで、
何枚同じものがあろうとも、ばらばらになったままであっても、
他の、ガラクタと同様、捨てずに持ち続けていました。
写真たちは、一切整理されることもなく、
箱どころか、ビニール袋にバサッといれられて、
どこかの隅、あちらの棚の横、押し入れの中と、
とにかく、何とかぎりぎりの居場所を与えられ、
和歌山の台風の多い片田舎の山沿いの家で、
あたかも、座敷わらしのような、
見えもしないホコリのような住人となって、
息をひそめてそこにおりました。
村上ファミリーが写るオーストラリア北部の海辺。
昔の折れ曲がってスジの入った写真も、うちにはいっぱいある。
たぶん Photo by 村上安吉(笑)
確かにときおり、
かつての移民資料の提供を求める、
研究者や、観光行政関係者などが、
母を訪ね、よく来てくれていることは知っていたのですが、
私には、なぜか、無関係のような気がしていました。
ところが、今回、
マユは、第1に私を訪ねて来ました。
それは、ある偶然もあって。
たくさんのインターネット資料の中で、
村上安吉の末えいの一人である、南 瑠霞が、
日本で、サインパフォーマンスをしているらしいと、
彼女が見つけてくれたのです。
彼女は、どうやら、
私に何かを感じてくれたようで、
母ヤス子の取材の、
仲介に立ってほしいと申し出てくれました。
はっきり言って、私は、父の考えで、
ある意味「日本人に仕立て上げられた」と、
言ってもいいと思っています。
彼は、自分たちの子供を、
世界でも有数の治安のいい国、日本で生んで、
日本のごく普通の学校に通わせ、
海外への野心など抱かず、コツコツと、
ごく普通の日本人として暮らさせることを、
良しとしたのです。
ですから、両親は、それほど、
母方のオーストラリアのファミリーのことも、
父方のアメリカの親族のことも、
積極的に、私に情報は与えていません。
私は、日系人とか、海外とやらという情報には、
両親の生い立ちと比べ、極端にうといのです。
つまりは、両親は、
日系人時代の難儀を子供には負わせたくなく、
平穏無事で苦労のない人生を与えたいと、
考えたのかもしれません。
・・・それで、
長々、書いたその意味は、
どういうことかというと・・・
「私は、両親のルーツなど知らないし、
それが、海を渡った多くの日系人たちの歴史と、
どう、織り合わさっているのか、理解のしようもないし、
そして、うちにそのような、
資料や証拠があるのも、よくわかっていなかったし、
あったとしても、そこに目が向かないよう、
箱入りに育てられ、
とにかく、私は、
『祖母の写真がきれい!』(笑)ということ以外、
なーんにも考えたことはなかった。」
これが、事実だとうことです。汗汗!!
そこへ、まさに、海を越えて、
日系人として、またフォトアーティストとして、
大先輩である安吉に、大事な思いを寄せ、
マユが、和歌山まで来てくれました!!
安吉の娘である母は89歳の高齢で、
どの程度、コミュニケーションが取れるかも、
心配だったのかもしれません。
マユは、ぜひ、私にも会いたい!!
と、言ってくれたのです。
それまで、確かに、
私に、オーストラリアの日系人の資料など、
分厚い本を、与えてくれた人は何人かいましたが、
どれも、英語が主体。
日本語でも、そんなに本好きではない私が、
馴染みのない英語で、
しかも全く知らない内容を読み取るのは、
ほぼ不可能。
基本、何も知らなかった私に、
日本のアメリカンスクール育ちのマユが、
取材のかたわら、日本語で!!
たくさんのことを教えてくれました。
私は、マユの、
和歌山県串本町の4日間、
ほぼすべての取材に、同行しました。
道案内や、必要な方々とのアポ取りは私が。
マユは、感性のおもむくまま、
様々な写真を、カメラに収め、
関係者への説明やインタビューを進めていきました。
その中には、
私の知らない、たくさんの日系人の話が出てきました。
村上安吉が、どんな人物だったのか、
串本町が、どれほど多くの人を、
海外に送り出したのか、
その人々の墓は今どこにあるのか・・・
串本の町を見下ろしながら、レンズを向けるマユ
Photo by 南 瑠霞
私は、今回初めて、
素直な意味で、
自分のルーツに出会った気がしています。
マユのおかげで。
今回、マユが会いに来てくれて、
私の価値観は、大きく変わり、気持ちも変わり、
ある意味、私に人生を見つめなおす、
きっかけを与えてもらったと感じています。
そのマユがブログにアップしてくれた、
和歌山の取材の旅(英語版)はこちら。
http://aboutmurakami.wordpress.com/2013/02/20/252/
そして!! 南 瑠霞、
すごく頑張って、生まれて初めて、
その内容を、英語から日本語に翻訳しました。
もちろん、わからないところは、
マユにニュアンスやイメージを教えてもらいながら。
翻訳家、南 瑠霞の誕生!!汗&笑
その翻訳記事は、また明日~~~!!

ハマユウのしげる庭。これが、祖父村上安吉の生まれ育った場所。
Photo by 南 瑠霞
* ここまでも長文でしたが、また明日も長文です。
長々と読んでいただき、ありがとうございます~~~~~~~!!
実家が、和歌山県本州最南端の町、
串本町にあります。
串本町田並という地区に、
たぶん江戸時代から暮らしていた村上家。
それが、我が家のルーツの一つです。
その流れをくむ、私の祖父、
村上家の次男坊、安吉は、
明治のころ、オーストラリアに移民し、
北部の街で、暮らしました。
その安吉が、
オーストラリアに暮らす日系人たちの先達として、
注目を集めているのだそうです。
日本人の流れをくむ、
オーストラリア在住の人々(日系人)にとって、
安吉は、オーストラリアの歴史に残る、
がんばった日本人(日系人)の先輩の一人のようです。

オーストラリア北部の街ブルーム。祖父の名を残した道の看板。
Photo by 金森マユ
(この写真のマザーは、こちら→http://aboutmurakami.wordpress.com/2011/07/08/entrance-point/)
2月 オーストラリアから取材に来てくれた
フォトジャーナリスト金森マユさんが、
英語のブログで我が家のルーツについて、
紹介してくれました。
http://aboutmurakami.wordpress.com/2013/02/20/252/
彼女もまた、
オーストラリアに住む日本人の一人であり、
日本を背景にオーストラリアに旅立ち、
そこに根付いた、多くの先輩たちの歴史をひもときながら、
様々な写真を撮り続けています。
そんなマユが、レポートのテーマに選んだのが、
私の祖父 村上安吉。
そのルーツをたどって、和歌山に来て、
安吉の娘である、年老いた私の母の話を聞き、
うちに残されていた、なんの整理もされていない、
古い何百枚という写真を、1枚1枚丁寧に見て、
調査資料として、取材して帰ったのです。
我が家の最寄駅「田並駅」まで来てくれた
金森マユさん。Photo by 南 瑠霞
マユは、安吉が、明治・大正時代、
オーストラリアで、そして日本に帰国した際、
撮影した数々の写真を、
大変貴重なものだと言っています。
中には、オーストラリアや、串本町の、
博物記録に残せるものも入っていそうだとか。
日本とオーストラリアの、当時の様子が、
これほどまでに写真に残されていることも、
珍しいうえ、
安吉は、写真家としても、
有意義な作品を、我が家に残しているんだそうです。
そうした歴史や写真に心得のない私には、
我が家にある古ぼけたフォトは、
まかり間違えば、まさにゴミ同然!汗
ほこりをかぶって、
捨てようかどうしようかと思い悩む種ほどのもの。汗汗
ここに、そんな価値があろうとは、
ついぞ、この2013年2月まで、
実感を持ったことはありません。
ルーズにも、
完全に絶対!!片づけられない症候群の一人であろう母は、
当然ながら、この写真も、
ただただ、肉親のものであり、
みんなの顔が載っているからという理由だけで、
何枚同じものがあろうとも、ばらばらになったままであっても、
他の、ガラクタと同様、捨てずに持ち続けていました。
写真たちは、一切整理されることもなく、
箱どころか、ビニール袋にバサッといれられて、
どこかの隅、あちらの棚の横、押し入れの中と、
とにかく、何とかぎりぎりの居場所を与えられ、
和歌山の台風の多い片田舎の山沿いの家で、
あたかも、座敷わらしのような、
見えもしないホコリのような住人となって、
息をひそめてそこにおりました。
村上ファミリーが写るオーストラリア北部の海辺。
昔の折れ曲がってスジの入った写真も、うちにはいっぱいある。
たぶん Photo by 村上安吉(笑)
確かにときおり、
かつての移民資料の提供を求める、
研究者や、観光行政関係者などが、
母を訪ね、よく来てくれていることは知っていたのですが、
私には、なぜか、無関係のような気がしていました。
ところが、今回、
マユは、第1に私を訪ねて来ました。
それは、ある偶然もあって。
たくさんのインターネット資料の中で、
村上安吉の末えいの一人である、南 瑠霞が、
日本で、サインパフォーマンスをしているらしいと、
彼女が見つけてくれたのです。
彼女は、どうやら、
私に何かを感じてくれたようで、
母ヤス子の取材の、
仲介に立ってほしいと申し出てくれました。
はっきり言って、私は、父の考えで、
ある意味「日本人に仕立て上げられた」と、
言ってもいいと思っています。
彼は、自分たちの子供を、
世界でも有数の治安のいい国、日本で生んで、
日本のごく普通の学校に通わせ、
海外への野心など抱かず、コツコツと、
ごく普通の日本人として暮らさせることを、
良しとしたのです。
ですから、両親は、それほど、
母方のオーストラリアのファミリーのことも、
父方のアメリカの親族のことも、
積極的に、私に情報は与えていません。
私は、日系人とか、海外とやらという情報には、
両親の生い立ちと比べ、極端にうといのです。
つまりは、両親は、
日系人時代の難儀を子供には負わせたくなく、
平穏無事で苦労のない人生を与えたいと、
考えたのかもしれません。
・・・それで、
長々、書いたその意味は、
どういうことかというと・・・
「私は、両親のルーツなど知らないし、
それが、海を渡った多くの日系人たちの歴史と、
どう、織り合わさっているのか、理解のしようもないし、
そして、うちにそのような、
資料や証拠があるのも、よくわかっていなかったし、
あったとしても、そこに目が向かないよう、
箱入りに育てられ、
とにかく、私は、
『祖母の写真がきれい!』(笑)ということ以外、
なーんにも考えたことはなかった。」
これが、事実だとうことです。汗汗!!
そこへ、まさに、海を越えて、
日系人として、またフォトアーティストとして、
大先輩である安吉に、大事な思いを寄せ、
マユが、和歌山まで来てくれました!!
安吉の娘である母は89歳の高齢で、
どの程度、コミュニケーションが取れるかも、
心配だったのかもしれません。
マユは、ぜひ、私にも会いたい!!
と、言ってくれたのです。
それまで、確かに、
私に、オーストラリアの日系人の資料など、
分厚い本を、与えてくれた人は何人かいましたが、
どれも、英語が主体。
日本語でも、そんなに本好きではない私が、
馴染みのない英語で、
しかも全く知らない内容を読み取るのは、
ほぼ不可能。
基本、何も知らなかった私に、
日本のアメリカンスクール育ちのマユが、
取材のかたわら、日本語で!!
たくさんのことを教えてくれました。
私は、マユの、
和歌山県串本町の4日間、
ほぼすべての取材に、同行しました。
道案内や、必要な方々とのアポ取りは私が。
マユは、感性のおもむくまま、
様々な写真を、カメラに収め、
関係者への説明やインタビューを進めていきました。
その中には、
私の知らない、たくさんの日系人の話が出てきました。
村上安吉が、どんな人物だったのか、
串本町が、どれほど多くの人を、
海外に送り出したのか、
その人々の墓は今どこにあるのか・・・
串本の町を見下ろしながら、レンズを向けるマユ
Photo by 南 瑠霞
私は、今回初めて、
素直な意味で、
自分のルーツに出会った気がしています。
マユのおかげで。
今回、マユが会いに来てくれて、
私の価値観は、大きく変わり、気持ちも変わり、
ある意味、私に人生を見つめなおす、
きっかけを与えてもらったと感じています。
そのマユがブログにアップしてくれた、
和歌山の取材の旅(英語版)はこちら。
http://aboutmurakami.wordpress.com/2013/02/20/252/
そして!! 南 瑠霞、
すごく頑張って、生まれて初めて、
その内容を、英語から日本語に翻訳しました。
もちろん、わからないところは、
マユにニュアンスやイメージを教えてもらいながら。
翻訳家、南 瑠霞の誕生!!汗&笑
その翻訳記事は、また明日~~~!!
ハマユウのしげる庭。これが、祖父村上安吉の生まれ育った場所。
Photo by 南 瑠霞
* ここまでも長文でしたが、また明日も長文です。
長々と読んでいただき、ありがとうございます~~~~~~~!!
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