日系移民コンディションⅡ

昨日の記事の続きです。
というか、こちらが、メイン!!笑
南 瑠霞の祖父 故 村上安吉は、
オーストラリアの日系移民で、事業家でフォトグラファー。
その祖父のルーツを訪ねて、和歌山県まで来てくれた、
オーストラリア在住 日系フォトジャーナリスト金森マユさんが、
取材記事を英語でアップしてくれました。
http://aboutmurakami.wordpress.com/2013/02/20/252/
その内容を、南 瑠霞の翻訳で、お届けします!!
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Diasporic condition(ディアスポリック・コンディション)
~ 日系移民の姿
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2時間に1本しかないという、のんびりしたローカル線で、田並駅(和歌山県串本町)に着いた。本州の最南端にほど近い、海辺の小さな町(ここはかつて『村』と呼ばれた)。フォトグラファー村上安吉が生まれ、17歳でオーストラリアに船出した場所である。

安吉が家族に別れを告げた田並の港は、かつての村上家の住居から、ほんの数百メートルのところにある。安吉は、毎日、ハワイやオーストラリアで仕事を見つけようと、海の向こうへ船で渡っていった、村の男たちを眺めながら、大きくなった。

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かつて田並港のあった海辺。村上家の石垣が奥左手に見えている。
Photo by 金森マユ

南 瑠霞(玲子)は、村上安吉の孫にあたる。田並駅で、私(マユ)と会ってくれた。瑠霞は、私と同年代で、私と似ている。アーティストであり、パフォーマーなのだ。彼女は、私のフォトパフォーマンス中に、サインによる作品を演じてくれる。

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南 瑠霞。田並駅にて。
Photo by 金森マユ

瑠霞は私を、母親のいる家に案内してくれた。彼女の母は、ヤス子・パール・南(旧姓 村上)という。私は、この89歳の女性に会うため旅に出た。iPadに、若き日の安吉の写真をたずさえて。その彼と道中を共にした私は、目の前にいる年老いた女性が、まるで彼の母親であるかのような幻想を見た。その老女は、本当は安吉の娘なのに。

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村上安吉の写真は、彼のふるさと日本の和歌山県田並へと、私と共に旅をした。ユーカリの木の皮とナッツのかけらは、オーストラリアNSW州カウラの安吉の墓石の近くにあったもの。これは、村上安吉が自らを映した肖像写真。村上ファミリー所蔵。
Photo by 金森マユ

ヤス子・パールは、オーストラリア西部のブルームという街で生まれ、のちに同じ田並出身の男性と結婚した。夫とは、第二次大戦中、民間人捕虜となったビクトリア州タツーラ収容所で一緒だった。ヤス子は、村上安吉と妻 テレサ・しげ乃(しげの)との間に生まれた3番目の子供である。

ヤス子・パールは、家で、村上安吉が残したたくさんのオリジナル・フォトを、見せてくれた。これらは、オーストラリアでは、失われた写真だった。1941年(2次大戦中)、安吉と家族は、オーストラリア在住の敵国人として、ダーウィンで検挙された。しかし、安吉は、こうした写真を、生涯を通して日本にいる母に送り続けていた。状況を見越した彼の行動によって、私たちは、彼の一生がどのようなものであったかを、見ることになった。

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古い写真を見る 南 瑠霞と南・パール・ヤス子。
Photo by 金森マユ

こうして、古いフォトを見ているうち、私たちは、かつて田並で写したらしい1枚の写真に出くわした。それは、これまで私が見た中で唯一の、安吉とその母やすが共に並ぶ、日本で撮影した写真であった。妻テレサ(しげ乃)と、9人の子供のうちの5人も写っている。この写真は、安吉が生まれ故郷に戻った折、田並で撮影されたことを物語っている。彼のオーストラリア出入国管理記録から、1925年のものと思われる。

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安吉と家族。和歌山県田並にて。1925年。
向かって左から、やす村上、フランシス・安之助 村上、
テレサ・しげ乃 村上、バナディット・吉子 村上(赤ちゃん)、
パール・ヤス子 村上、キャサリン・ます子 村上(立ち姿)、
リチャード・重吉 村上 そして、村上安吉。
Photo by 村上安吉. 村上ファミリー所蔵。

安吉の父、村上重兵衛は、成功者であった。田並から来たほかの男たちとは違い、安吉は、家を離れ、仕事を探す必要などなかったはずだ。彼は、若々しいエネルギーを抱いて、これから待つ冒険を楽しみにしていたのではないだろうか。私も、1981年、初めて東京からオーストラリアに来た日を覚えている。私もまた、オーストラリアへ来る、生活上の理由はなかった。

村上の家は、村の一等地にあった。地区の中心にあるメインロード沿いだ。海に面した石垣は今も残されており、こここそが村上家の土地であった。この場所は現在3つに分けられており、両端に家が建ち、中央のブロックが空き地となっている。この空き地部分を、現在、ヤス子・パールが所有している。
1925年、日本へ帰国した安吉は、村上ファミリーの土地が、生活苦のため親族の手で売り払われているのを知った。安吉は、オーストラリアで稼いだ資金を使って、土地を買い戻し、再び母親をそこへ住まわせている。これが、現在のヤス子・パールの所有地だ。

この話を聞きながら、私の目は、涙が浮かぶのを感じた。誠実な息子の行動が、私の心を揺さぶったのだ。私は、Diasporic condition(日系移民の姿)を見た。

1939年、安吉はオーストラリアの市民権を得るため申請書を出すが、権利は得られなかった。その時の書類に、1925年のholiday(休暇)に、日本に帰国したと記されている。私たちDiasporic condition(日系移民の姿)が、心に触れた。

人々が、holiday(休暇)で海外に出れば、それは異国情緒を大いに楽しんで過ごすという意味になるだろう。ただ安吉や私自身のように、海を越えて暮らす多くの者(移民)たちにとって、holiday(休暇)とは、愛する人の住む地へ戻り、新たに絆を結び、思いを温めなおす旅となる。そして(holiday(休暇)を終えれば)また、私たちは、もう一つの人生の、もう一つの愛すべき人たちの元へ帰る。

私が田並を離れる日、瑠霞が、いつかおそらく受け継ぐであろうその空き地で、祖父 村上安吉にパフォーマンスを送ろうと決めた。私は、それをオーストラリアへ持ち帰り、カウラにある安吉の墓石の前で再現するために、ビデオに収めた。

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ファミリーの土地のある石垣の上で、サインパフォーマンスをする南 瑠霞。
写真は、金森マユが撮影した動画から。



(以上、金森マユブログ About Murakami より)
http://aboutmurakami.wordpress.com/2013/02/20/252/
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マユさん、ありがとう!!

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