鈴木 良子(すずき・よしこ)さんが伝えてくれたもの
カウラに来てよかったと思った。
もう83歳だというその女性は、私が誰だかわかると、
昔のことを思い出すような遠い目になって、
英語と日本語の混ざった言葉で、
ゆっくりと、話しはじめた。
ああ、南竹一さんが、あなたのお父さんなの?
確か、南さんは、村上ヤス子さんの旦那さんよね。
そう?合ってる?
あなたは、二人が日本に行ってから生まれた子供ね。
確か、当時、二人には、男の子がいた。
その子は、まだ、1歳か2歳の本当に小さなベビーでね。
二人は、その子を連れて、日本へ引き上げていったわ・・・
私は、そのころ13歳の娘だった。。。。
私の知らない、オーストラリアの捕虜時代の、
若い両親をその人は知っていた。
その人の目には、
私の兄である小さな赤ちゃんを抱えた若い二人の姿が、
はっきりと、よみがえっているようだった。
鈴木良子さん、
かつて、幼少のころは、山下さんと言っていたこの女性は、
現在、鈴木というやはり同じ日系人の男性と結婚し、
シドニーに住んでいるといった。
元気のいい娘さんと一緒に、
今回のシンポジウムにやってきた。
両親と同じように、この人も、タツーラという街で、
民間人として、戦争の捕虜になっていたのだ。
「オーストラリアにおける民間人抑留者のシンポジウム」がはじまって、
続々と、世界から集まった日系人や当事者・関係者のなかで、
私が、最初に、あいさつを交わしたのがこの人だった。
私たちは、まだ、それほど人の多くない会場の、
カウラ・ジャパニース・ガーデンのベンチに座って、
しばらく話をした。
3月という、オーストラリアでは、夏を残したこの季節に、
青いモミジの葉の茂る木の下で。
私の知らない、もう70年も前の、
あの日の収容所の空が、
今、目の前にあるかのように、
風が吹いて、そのモミジの枝が揺れた。
私が知っているのは、
私が生まれた後の、日本でのごく普通の家庭の両親。
その両親に、
私の知らない過去があって、
それは、戦争の真っただ中で、
異国の大陸の捕虜収容所で、
確かに暮らしていたのだと、
その女性の言葉が、私に知らせてくれた。
うちには、両親の結婚式の写真も、
当時生まれたばかりの兄の写真もない。
何もない、収容所で二人は、結婚し、
そして兄が生まれ、終戦が来た。
戦争は、異国で暮らしていた日系移民たちをも巻き込み、
オーストラリアは、
敵国人として、民間人を収容した。
そこに確かに父と母がいて、
この広大な空の下に、生きていたのだと、
私は、生まれて初めて、実感した。
ジャパニ-ズ・ガーデンには、
ユーカリの木や大きな岩があって、
とても日本風とばかりは言えないが(笑)、
それでも、ところどころにこうして、
モミジや桜の木が植えられ、
庭園中に、水の流れる川があり、
カウラの人々が、日本に思いを寄せてくれていることがわかる。
その庭で、風に吹かれながら、
私は、もう年老いて一人では、
旅行もままならないといったその女性から、
大事なものを教わった。
人は生きて、歴史をつなぎ、
確かに、今の今まで、1秒も抜けることなく、
軌跡がつながっているのだと。
私にとっての、小さなカウラでの体験が、
2014年3月6日、はじまった。
それは木陰のささやかな会話であり、
遠く昔に残してきた両親の姿と会うことであった。
鈴木良子さん
鈴木良子さんと、娘マリさん
公園の隅には、ベンチと木陰があった。
収容所のあったタツーラの、郷土史家 ルーリンさんと、鈴木さん。
この記事へのコメント
スマートフォンなので、お母さんは、画像なんとかみえる程度なのが、申し訳ないです。