ジュリー 村上

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私は、ジュリーのことを、心の中で、
「つんつん ジュリー」と呼んでいた。
いつも、私の英語が通じなくて、
さらに、向こうも熱心に聞いてくれるそぶりでもなく、
最後には彼女の顔が、ツーンという顔になって、
互いの話が伝わらないまま、
会話が終わってしまうからだ。

オーストラリア・ダーウィン在住のジュリーは、
日系人の祖父を通じての親せきである。
互いが小中学生のころ、
彼女が日本に来た時に会って、
それ以来の仲だ。
小さいときには、それなりに、
たがいにはしゃいだりして、
言葉が通じなくても何とかなったが、
大きくなってからは、
何度か行き来して会っても、
話が盛り上がるような仲ではなかった。
また、ジュリーは私のように、
人に媚びたりしてにこにこ笑うタイプでもなかったので、
通じなくてわからない時、
よけい怖い表情に感じられ、
今回も、彼女に会うのは、気が重かった。

成田を出発するとき、
「あ~、また話の通じないジュリーに会うのか~、
また、シーンとして顔を突き合わすのは、いやだな~」
そう思って、
ジュリーのことは、考えないようにしていた。

しかし、
今回、同じ祖父を持つものとして、
シンポジウム会場にやってきたジュリーは、
今までと少し違っていた。

彼女は、私に会った次の日、
ホテルから会場に、昔作ったアルバムを持ってきて、
かつて日本に来た時の写真を、
私に、たくさん見せ始めたのである。
それは、明らかに、
私たちが、小さなころ会った広島などでの写真だった。
ジュリーは、私のために、その思い出を見せようと、
重いアルバムを、カバンの中に入れて持ってきてくれていたのだ。
同じオーストラリア在住といっても、
広いこの国で、遠くから飛行機に乗ってきたというのに、
その荷物に、わざわざ、私に見せるための大きなアルバムを、
入れ来てくれたのかと思うと、
私は、うれしくてたまらなかった。

相変わらず、私たちは、
あまり口をきくことはなかったが、
明らかに、彼女は、
私と仲良くしたいと!!
そう思ってくれていることが、伝わってきた。

その後、私たちは、彼女の弟や、母親、
そのほかの親せきも一緒に、
食事に行ったりして、徐々に打ち解けて、
そのうち、彼女は、
「日本語で、おはよう は、どういうの?
こんにちは は?」
と、訪ねてきた。
ジュリーは、今まで、話したくても、
日本語が、全くわからなかったのだ。

グッドモーニングは、おはよう。
ハローが、こんにちは。
そうやって、少しだけ、
ほんの少しだけ、ジュリーが日本語を、
覚えようとしてくれているようだ。

その翌日、シンポジウムでは、
第二次大戦中の、オーストラリアの敵国捕虜として、
抑留されていた当事者や、
子供や孫などの関係者、代表4人が、
ステージに立っていた。

その中に、ジュリーもいた。
会場には、
当時、まだ小さかったのに、収容所に連行された人のほか、
抑留されていた当事者は、亡くなってしまったが、
今、その思い、その歴史を知りたいという、
子孫たちも、たくさん訪れていた。
イタリア系の人、ドイツ系の人、
そして、ニューカレドニアから来た日系の人、
また、ジュリーなど、移民でオーストラリアにやってきた日系人の子孫。
(そこに、私も入る。)

それぞれの人が、祖国の事情を抱えながら、
民間人として抑留され、両親たちから聞いた様々な経験などを、
会場に伝えた。

今回のシンポジウムで、英語のわからない私は、
会場で、何かの音楽のように、
人々の話を聞き、みなが笑えば笑い、
みなが真剣な表情になれば、真顔になって、
会場に同化しながら、
決して、内容を理解することなく、
時には、しっかり居眠りをしながら(汗)、
席についていた。
(頼りになるのは、事前にもらっていた日本語の資料や、
前もって買っていた何冊かの本だけである。汗&笑
レポート報告などでは、本人の名前を確認して、
資料を見ながら、こんなことを言っているのかもしれない・・・
と推測しながら、話を聞くという厳しい状況。笑)

しかし、ジュリーたちの経験談の時間だけ、
親切にしてくださった通訳の方に、
そばについていただいて、
その内容を、同時通訳してもらった。

イタリアの人、ドイツの人、それぞれの話、
ニューカレドニアの知的な女性の、ここまでの活動の話。

そして、ジュリーは、
すでに亡くなって会えなくなってしまった、
曽祖父や祖母が、どのような体験をしてきたのか、
もっと知りたいと言った。
そして、子供を持つことで、はじめて、
自分のルーツを伝えるため、
この日系人の問題を、まじめに学びたいと思った。
と、率直な気持ちを、会場に伝えた。

私は、今回、こうした人たちと出会い、
知ったことがたくさんある。
この会場に集まった大勢の人に会わなければ、
たとえこの歴史について、多少の知識があったとしても、
何一つ、物事を実感できていなかった。

私は、わたしと同じ、抑留経験を持つものの家族の話を聞いて、
初めて、戦後、日本に戻った両親が、
「今までなぜ、あまりこのことを私に、語ってこなかったのか」
に、気づいた気がした。
両親は、戦後、日本人として生きるため、
オーストラリアでの経験を封印してきたのだ。
何より、両親は、移民したことで、兵役を免れており、
いやしくも、捕虜となって生きて戻り、
誰も、知らないオーストラリアの日系人たちの話を、
どんなに力説しても、その思いを分け合うものもなく、
また語ったとしても、あまりに違う南半球の話が、
周りの人には、理解できなかっただろう。

また、戦後直後の日本は、それどころではなく、
両親は、配給生活を受けながら、当時赤ん坊だった兄を育て、
日々、乗り越えていくことだけで、必死だったに違いない。
その後、懸命に働いて、私が生まれ、
高度成長期になったころには、
抑留生活も、昔のこととなっていたのかもしれない。
私は、私で、小さなころ病弱であったし、
受験戦争だのなんだのと言って、
両親は、そっちのほうが、目の前の急務になっていただろう。
私は、実際、戦争などなかったかのように、
大事に育てられ、ここまで、何の苦労も知らない。
それが、我が家の事実である。

そんな中、父もなくなり、母が高齢になったことで、
私は、ようやく、
うちにある膨大な、オーストラリア関係の写真や資料が、
歴史的に重要な意味を持つものであると悟り、
半ば責任を感じる形で、
オーストラリアにやってきた。

私は、はっきり言って、
ぼんやりした、とんちんかん野郎のまま、
ここへ来たのだ。

その目の前で、やはりジュリーが、
自分の知らない歴史を知りたい、
ルーツを子供たちに伝えたいと話したことは、
私には、ジュリーを理解する大事な機会となった。

私たちは、同じように、
失われた過去を、取り戻して、今につなげたいと願っているのだ。

私は、ジュリーたちの短い発表の時間を共に会場で過ごし、
子孫たちが、なぜ、ここに来たのかというひとかけらを、
改めて、知るきっかけも、もらった。
みな、私と「同じ」なのである。

私は、小さなころから、
どうしても、なぜか、日本で周りの人たちになじめなかった。
何かがどうしても違い、
ものの考え方や感じ方も、なぜかふわりと浮いて、
同じ日本語を使っているのに、話はどこか背景が違っており、
その言葉の意味が分からないと感じることがしばしばあった。
私も日本で生まれ、日本で育ち、日本語しか話すことができないのに。

その私の「孤独」の意味が、このオーストラリアで、
少しずつ紐解かれ、私と「同じ」に出会うことで、
私は、自分が誰であるのか、その後ろ姿が見え始めように、感じている。
このシンポジウムで、本当の自分を探すのも悪くないかなと思える、
そんなきっかけをもらったように、思うのだ。

つんつんジュリーは、いつしか、
熱い思いあふれる大事なソウルメイトとなり、
彼女が、つんつんしているは、
私が嫌いなのではなく、
本当に、日本のことを知らないのだということも分かってきて、
私が勝手につけた つんつんジュリーという名は、
笑い話となり、
彼女が、素敵な家族であると、
改めて、今日、
この文章を読んでくださっているあなたに、
ご紹介します。

ジュリー村上。
オーストラリア・ダーウィンの、
私の、ファミリーです。

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祖父 村上安吉のお墓の前で。
(左からジュリーの弟のカルビン。2人のママ。ジュリー。南 瑠霞)




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