キャンプ4
11日、タツーラミュージアムの方に同行していただいて、
第2次大戦中、私の祖父母や両親が捕虜となって抑留されていた
キャンプ跡地を見てきました。
私の家族が暮らしていたのは、複数ある抑留地の中の、
キャンプ4と呼ばれるエリアでした。
ここには、小さな診療所は、ありましたが、
本格的な病院は、キャンプ1にありました。
重い病気の人の治療や、出産などは、
ドイツ人の優秀な医師がいる キャンプ1に移動して、おこなったのだそうです。
私の母もキャンプ1で、兄を出産しています。
メモリアルホールと名付けられた建物は、かつて収容所で使われていた家を、
そのまま運び出して移築したものだそうです。
当時、収容されていた人たちが、会合などに使っていた建物のようです。
現在は、地域のコミュニティセンターとして、使われています。
この建物は、4つのパートからできていて、一番左は、あとから作られたもの。
左から2番目の部分は、当時の収容所の住居となっていたであろう建物、
次の部分は、2つの建物をつなぐため、あとから作られたそうです。
地元の人が、ワランガ・ベイシン と呼ぶ、人口の貯水池は、
かつての収容所跡の、すぐ近くにあります。
あたりは、ピクニックフィールドになっており、休日などには、
ファミリーでにぎわうんだとか。
タツーラの街から、車でおよそ20分。
この柵の、ずっと先に、キャンプ跡地があります。
敷地内に入って一番最初に目についたのは、ここ。
かつての住居の土台部分が、大きく崩れ、木も生えています。
これは、なにかというと・・・
西洋によくある、便座式のトイレ跡です。
こちらも、同じように、トイレ跡。四角い穴のうえには、便座があったものと思われます。
その中でも、ひときわ目立ったのが、
この、両足を置いて使用するようになっている、和式トイレ。
トイレなど、様々な建物は、収容された捕虜たちが自分たちでも作ったと言われており、
実際に、日本人たちが暮らしていたことがよくわかります。
同行してくれた、若いスタッフのセーラが、見つけて、
「ねえ、ここにきて! すごい!!」と、私を呼びました。
70年前使っていた、キャンプ内コインが、足元に転がっていたのです。
「るるかは、ラッキーだ!こんなすごいものが見つかるなんて!」
と、もう一人の女性カメラマン、ケイさんも叫びました。
当時は、キャンプ内だけで通用するコインが使用され、
居住者たちは、抑留地内ショップで買い物をしていたといいます。
それが、時を経て、今頃、私たちの目の前に転がり出てくるなんて、
驚きでした。
日本の10円玉と並べてみました。
裏には、どうやら、ペンスと、お金の単位がかかれているようです。
ほかにも、このようなしっかりした土台も、いくつも残っています。
何に使われていた建物か、詳細は、スタッフの皆さんにも、
わからないそうです。
このような、れんがで作られたものの一部も転がっています。
れんがには、一つ一つ、文字も刻まれていたようです。
これは、生活で出た水を流す溝。簡単な下水道といえるかもしれません。
パイプが、にょきっと立っていました。水道を引いていたものと思われます。
今も、当時のまま、鉄条網が、あちこちに残っています。
この日、天気は、曇り。
真夏の照りつける太陽を、雲が遮ってくれて、
私たちは、いくぶん涼しい空の下、いくつもの写真を撮りました。
私のために、たくさんの時間を割いてくださった、
ミュージアムの皆さん、本当に、ありがとうございました。
心から感謝いたします。
第2次大戦中、私の祖父母や両親が捕虜となって抑留されていた
キャンプ跡地を見てきました。
私の家族が暮らしていたのは、複数ある抑留地の中の、
キャンプ4と呼ばれるエリアでした。
ここには、小さな診療所は、ありましたが、
本格的な病院は、キャンプ1にありました。
重い病気の人の治療や、出産などは、
ドイツ人の優秀な医師がいる キャンプ1に移動して、おこなったのだそうです。
私の母もキャンプ1で、兄を出産しています。
メモリアルホールと名付けられた建物は、かつて収容所で使われていた家を、
そのまま運び出して移築したものだそうです。
当時、収容されていた人たちが、会合などに使っていた建物のようです。
現在は、地域のコミュニティセンターとして、使われています。
この建物は、4つのパートからできていて、一番左は、あとから作られたもの。
左から2番目の部分は、当時の収容所の住居となっていたであろう建物、
次の部分は、2つの建物をつなぐため、あとから作られたそうです。
地元の人が、ワランガ・ベイシン と呼ぶ、人口の貯水池は、
かつての収容所跡の、すぐ近くにあります。
あたりは、ピクニックフィールドになっており、休日などには、
ファミリーでにぎわうんだとか。
タツーラの街から、車でおよそ20分。
この柵の、ずっと先に、キャンプ跡地があります。
敷地内に入って一番最初に目についたのは、ここ。
かつての住居の土台部分が、大きく崩れ、木も生えています。
これは、なにかというと・・・
西洋によくある、便座式のトイレ跡です。
こちらも、同じように、トイレ跡。四角い穴のうえには、便座があったものと思われます。
その中でも、ひときわ目立ったのが、
この、両足を置いて使用するようになっている、和式トイレ。
トイレなど、様々な建物は、収容された捕虜たちが自分たちでも作ったと言われており、
実際に、日本人たちが暮らしていたことがよくわかります。
同行してくれた、若いスタッフのセーラが、見つけて、
「ねえ、ここにきて! すごい!!」と、私を呼びました。
70年前使っていた、キャンプ内コインが、足元に転がっていたのです。
「るるかは、ラッキーだ!こんなすごいものが見つかるなんて!」
と、もう一人の女性カメラマン、ケイさんも叫びました。
当時は、キャンプ内だけで通用するコインが使用され、
居住者たちは、抑留地内ショップで買い物をしていたといいます。
それが、時を経て、今頃、私たちの目の前に転がり出てくるなんて、
驚きでした。
日本の10円玉と並べてみました。
裏には、どうやら、ペンスと、お金の単位がかかれているようです。
ほかにも、このようなしっかりした土台も、いくつも残っています。
何に使われていた建物か、詳細は、スタッフの皆さんにも、
わからないそうです。
このような、れんがで作られたものの一部も転がっています。
れんがには、一つ一つ、文字も刻まれていたようです。
これは、生活で出た水を流す溝。簡単な下水道といえるかもしれません。
パイプが、にょきっと立っていました。水道を引いていたものと思われます。
今も、当時のまま、鉄条網が、あちこちに残っています。
この日、天気は、曇り。
真夏の照りつける太陽を、雲が遮ってくれて、
私たちは、いくぶん涼しい空の下、いくつもの写真を撮りました。
私のために、たくさんの時間を割いてくださった、
ミュージアムの皆さん、本当に、ありがとうございました。
心から感謝いたします。