第二次大戦中 日系人など多くの外国人が抑留されていた収容所
オーストラリアでは、第二次大戦中、多くの民間日系人・イタリア系・ドイツ系の方も、捕虜となって収容所に抑留されていました。今回のカウラでのシンポジウムでは、そうした収容所のあった各地域の博物館や、郷土史家の活動なども紹介されました。

進行役は、写真一番右、ジョナ・プライスさん。3人の郷土史家によるパネルディスカッションが始まった。

この写真の向かって左側が、私の両親や祖父母の収容されていた タツーラ強制収容所の研究をされている タツーラミュージアムの ルーリーン・ニーさん。

この写真向かって左は、陽気で楽しい デビッド・ヒューストンさん。ヘイ強制収容所の、研究活動をされています。ヘイで生まれ育ったオーストラリア人。戦争当時5歳。かつて収容所の中にいた子供たちと、今、一緒に、調査活動をしておられます。
右の女性は、ラブデー強制収容所研究者、ローズマリー・ガウワさん。
タツーラは、メルボルンの北180キロのところに作られた収容所。あたりには、大きなユーカリの木が点在する地域。キャンプ1~4の4つの収容所があった。キャンプ1には、主にドイツ人。キャンプ2には、主にナチス派のドイツ系オーストラリア人。キャンプ3には、ドイツ人およびイタリア人の女性とファミリー。私の両親がいたキャンプ4には、日本人・台湾人・朝鮮人の女性・ファミリーなどが収容されていた。
キャンプ4は、4つに区分されており、台湾人はAエリア、残りのB・C・Dには、日本人や日系ファミリーが入っていた。
住居用のバラックは、10棟あり、1棟12室、数家族が共用。タツーラには、子供の遊び場や、収容所スクールなどもあった。そこで私の父は、一時校長も務めている。
キャンプ4内には、小さな診療所もあったが、本格的診療は、優秀なドイツ人医師がいるキャン1で行われていた。私の両親は、強制収容中にキャンプ4で結婚し、母はキャンプ1で兄を出産している。
ヘイ収容所は、ニューサウスウェールズ州シドニーの 西750キロに設置されていた。ここは、牧草地の広がる、羊毛の生産地帯である。ここには、キャンプ6~8があった。6には、日本人。7・8には、イギリスから移送されてきたドイツ人とイタリア人が収容されていた。
ラブデー収容所は、南オーストラリア州リバーランド地区バーメラ近郊にあった。半乾燥地帯で、ここは、オレンジやブドウの産地。キャンプ9・10・14の3つの収容所があり、9には、オーストラリア国内のイタリア人。10には、海外から来たドイツ人とイタリア人が収容された。14は、オーストラリア最大の収容所で、各1000人ずつ収容できるセクションが、A・B・C・Dと、4つあった。Aには、主にドイツ系。Dは主に、イタリア系。日本人と台湾人は、B・Cに収容された。
なお現在、当時収容所で亡くなった方々は、日系人が今回式典のあったカウラ墓地に、ドイツ系の方がタツーラ墓地に、イタリア系の方はタツーラの隣町マーチソンの墓地に埋葬されていてる。
※ 私は、こうしたことを、タツーラ在住のカメラマン ケイ・ワトソンさんの話と、元クイーンズランド大学の教授である 永田由利子さんの手記から、教えていただいた。(参考文献:「オーストラリア日系人 強制収容の記録(高文研)」)
私 南 瑠霞は、この記事をまとめるために、オーストラリアに来たと確信します。多くの方の力を借りて、かつて両親が捕虜となっていた収容所の状況等がわかり、とても感謝しています。本当に、ありがとうございます。

なお、余談ですが、会場には、こうしたイベントにはつきものの、音響の方や照明の方ももちろん、いらっしゃいました。いろんなイベントで、プロデューサー・ディレクターなどを担当することもある私は、やはりそうしたエンジニアの方にも目が行きます。笑 というわけで、会場で2日間、ずっと音響をなさっていた方のお写真も、撮らせていただきました。重大なお仕事、お疲れ様です。感謝。

進行役は、写真一番右、ジョナ・プライスさん。3人の郷土史家によるパネルディスカッションが始まった。

この写真の向かって左側が、私の両親や祖父母の収容されていた タツーラ強制収容所の研究をされている タツーラミュージアムの ルーリーン・ニーさん。

この写真向かって左は、陽気で楽しい デビッド・ヒューストンさん。ヘイ強制収容所の、研究活動をされています。ヘイで生まれ育ったオーストラリア人。戦争当時5歳。かつて収容所の中にいた子供たちと、今、一緒に、調査活動をしておられます。
右の女性は、ラブデー強制収容所研究者、ローズマリー・ガウワさん。
タツーラは、メルボルンの北180キロのところに作られた収容所。あたりには、大きなユーカリの木が点在する地域。キャンプ1~4の4つの収容所があった。キャンプ1には、主にドイツ人。キャンプ2には、主にナチス派のドイツ系オーストラリア人。キャンプ3には、ドイツ人およびイタリア人の女性とファミリー。私の両親がいたキャンプ4には、日本人・台湾人・朝鮮人の女性・ファミリーなどが収容されていた。
キャンプ4は、4つに区分されており、台湾人はAエリア、残りのB・C・Dには、日本人や日系ファミリーが入っていた。
住居用のバラックは、10棟あり、1棟12室、数家族が共用。タツーラには、子供の遊び場や、収容所スクールなどもあった。そこで私の父は、一時校長も務めている。
キャンプ4内には、小さな診療所もあったが、本格的診療は、優秀なドイツ人医師がいるキャン1で行われていた。私の両親は、強制収容中にキャンプ4で結婚し、母はキャンプ1で兄を出産している。
ヘイ収容所は、ニューサウスウェールズ州シドニーの 西750キロに設置されていた。ここは、牧草地の広がる、羊毛の生産地帯である。ここには、キャンプ6~8があった。6には、日本人。7・8には、イギリスから移送されてきたドイツ人とイタリア人が収容されていた。
ラブデー収容所は、南オーストラリア州リバーランド地区バーメラ近郊にあった。半乾燥地帯で、ここは、オレンジやブドウの産地。キャンプ9・10・14の3つの収容所があり、9には、オーストラリア国内のイタリア人。10には、海外から来たドイツ人とイタリア人が収容された。14は、オーストラリア最大の収容所で、各1000人ずつ収容できるセクションが、A・B・C・Dと、4つあった。Aには、主にドイツ系。Dは主に、イタリア系。日本人と台湾人は、B・Cに収容された。
なお現在、当時収容所で亡くなった方々は、日系人が今回式典のあったカウラ墓地に、ドイツ系の方がタツーラ墓地に、イタリア系の方はタツーラの隣町マーチソンの墓地に埋葬されていてる。
※ 私は、こうしたことを、タツーラ在住のカメラマン ケイ・ワトソンさんの話と、元クイーンズランド大学の教授である 永田由利子さんの手記から、教えていただいた。(参考文献:「オーストラリア日系人 強制収容の記録(高文研)」)
私 南 瑠霞は、この記事をまとめるために、オーストラリアに来たと確信します。多くの方の力を借りて、かつて両親が捕虜となっていた収容所の状況等がわかり、とても感謝しています。本当に、ありがとうございます。

なお、余談ですが、会場には、こうしたイベントにはつきものの、音響の方や照明の方ももちろん、いらっしゃいました。いろんなイベントで、プロデューサー・ディレクターなどを担当することもある私は、やはりそうしたエンジニアの方にも目が行きます。笑 というわけで、会場で2日間、ずっと音響をなさっていた方のお写真も、撮らせていただきました。重大なお仕事、お疲れ様です。感謝。