マッツォス カフェ

オーストラリア・ブルームにいます。
私が泊まっているアパートメントの、すぐそばに、地元の人ならだれもが知っているという、大きなレストランがあります。ここは、自家製のビールでもおなじみの、カフェレストラン&バーで、朝7時から、夜も22時くらいまで、すごく長い時間開店しています。朝行けば、モーニングトーストが楽しめ、お昼にはランチがあり、夜にはお酒やディナーもOKという、ぜいたくなお店です。笑 午前中は、アボリジニの方なども、外の庭のテーブルに座って、皆さん楽しそうにおしゃべりをされています。

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http://www.matsos.com.au/

ここは、戦後、松本さんと言うファミリーが、ショップを営んでおられ、その名前が残って、今でも、マッツォス・カフェと、呼ばれています。

実は、私は、ブルームに来て、ここに毎日通っています。笑

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この建物、私の祖父、村上安吉も、1910年代に、暮らしていたことがあるのです!!わぉ!!
この建物の初期の持ち主は、地元の人ならだれでも知っている、キャプテン・グレゴリーさん。グレゴリーさんは、ブルームの名士で、町の有力者でした。そのグレゴリーさんと、祖父・村上安吉は、とても仲が良く、常に一緒に仕事をしていたのだそうです。それで、グレゴリーさんが、長期でこの家を空けるとき、この家には、安吉も住んでいたのです。笑
当時、オーストラリアの白人が、日本人を対等に扱うことはたいへんまれで、しかも、その家で日本人が暮らしているなんて、あってはならないことだったらしく、”グレゴリーの豪邸で、村上という日本人が、暮らしている!!”と、ちょっとしたスキャンダルになったこともあるんだそうですよ。笑

当時、村上安吉は、ブルームで、雑貨店や写真スタジオを営んでいました。また、日本人を中心としたパールダイバーのための、銀行を営んだり、当時まだまだ不便だった潜水具の開発に取り組んだりもしています。そうしたこともあって、村上は、この町でだんだんと人気を上げていき、日本人コミュニティーのリーダーとして、多くの人とともに暮らしていたのです。
そうした経緯があり、のちに、先日ご紹介した「村上ロード」も、町の片隅に設けられることになりました。
http://minamiruruka.seesaa.net/article/391782187.html 

その後、第二次大戦とともに、この地域にいた多くの日本人・日系人は、オーストラリアの敵国民間人捕虜となり、収容所に連れていかれてしまいました。
村上ファミリーは、私が、先日取材させていただいたように、遠く離れた、南部メルボルン近くのタツーラまで、移動させられたのです。
http://minamiruruka.seesaa.net/article/391204149.html
http://minamiruruka.seesaa.net/article/391209082.html 

村上安吉は、その捕虜の抑留キャンプ内で生涯を終え、現在亡骸がシドニー奥部のカウラに埋葬されています。

祖父のストーリーは、100年以上も昔、西オーストラリア・ブルームから始まっています。
そう言えば、私の今回の旅は、すべて逆に、その歴史を後ろからたどっていることになりますね。笑

さて、そんな祖父にゆかりの深いブルーム。祖父もかつて暮らしていた、マッツォズ・カフェの建物は、第二次大戦中、同じタツーラの収容所でともに抑留されていた松本さん一家が、終戦後改めてブルームに戻ったとき、買い戻し、新たに日本人の店として、生まれ変わりました。
その名前が今でも残っているのが、マッツォズ・カフェです。

100年の時を、多くの日系人とともにあったマッツォス・カフェ。祖父も暮らしていたマッツォス・カフェで、私は毎日大好きな紅茶を飲んで、この町にいます。笑

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激動の時代、海を渡って自分の道を切り開き、この建物の木の階段を何度も上り下りしたであろう祖父は、まさか100後、その時まだ生まれてもいなかった娘のそのまた娘が、ここに来て、天井のファンを見ながらお茶を飲むなんて、想像もしていなかったでしょう。
じいちゃん、私はあなたの孫だよ。私は、この店の英語もしゃべれない、一人の日本人客だけど、でも、本当は、とてもスペシャルな客なんだ。かつて、あなたが座っていたかもしれないこの窓辺で、あなたと同じように腰を下ろし、ほっと一息つきながらささやかな食事を楽しんでいる。あなたが見たに違いない、エメラルドの海を見ながら。ここは、空が広いね。雲がきれいだ。白い鮮やかな花が、あちこちに咲いて、暑くて、穏やかで、情熱的だ。

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2度目に、マッツォズ・カフェに来た時、お店のスタッフの方に、「私のおじいちゃん、100年くらい前、ここで暮らしていたんだ」と言ったら、とても喜んでくれて、何枚かの資料をくれたり、「絶対、近くにあるミュージアムに行ってね。この町や店や、ダイバーのことなど、いろんな記録が残っていて、もっともっとわかるよ。」と教えてくれた。
今日は、そのミュージアムを訪ねてみようかと思っている。
多くの出会いと、祖父の生きざまに感謝と敬意。

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※ このストーリーのいくつかは、オーストラリア在住のフォトアーティスト、金森マユが教えてくれました。ありがとう。

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