パール浜口 ~ 自分と"同じ"に出会う旅
ブルームの住宅街に、ひときわ広い邸宅をたたえる パール浜口(74歳)の家がある。「周辺の通りの一角、全部私の家よ!」と、ごく自然に話す彼女には、成功者としての意識も、特にはないようだ。すでに亡くなった、彼女の夫、浜口博司氏は、和歌山県南部(下里・たかしば)の出身。ブルームに来てパールビジネスで、生活を安定させた。私が、串本から来たと伝えたら、喜んで家の中に通してくれた。

「これは、私の母よ!あなたのお爺さんが、1930年ごろに写した写真ね。うちは、村上たちと、たくさんのつながりがあったのよ。」と、見せてくれたのは、肌の色が黒く目が神秘的な美しい女性の姿だった。バーバラ・ラインノット、日本人ではない。バーバラの夫が、日本人やチャイニーズの血を引いているらしい。
パールには、6人の子供がおり、それぞれブルームなどオーストラリアで家庭を持ち、孫やひ孫もいる。
第二次大戦中、浜口のファミリーも、オーストラリアの敵国人として、民間人捕虜となった。日本人ではない妻や、その子供であるハーフの子は、オーストラリア人として扱われ、つかまることはなかったが、逆に夫や父を連れ去られ、家族は引き離された。
終戦を待ち、その家族に再び会えたものもいれば、抑留中の死亡などで、再会を果たせなかったファミリーも多い。
そんな過去を乗り越えたおおらかさが、パールにはあった。「私は、あなたのおばさんのことも知っているわ。お母さんの妹にあたる人よね。彼女は、戦後、ブルームで将来の夫に出会い、恋に落ちたのよ。私が証人よ!」と、大声で笑った。
しばらくすると、近所に住む、塩地逸志(しおじ・いつし)が、パールの家に裏口から遊びに来た。戦後、40代でブルームを訪れ、20年以上パールダイバーを務め、今は引退の身だという。逸志も、同じく和歌山県南部出身(浦上)で、私の実家周辺と同じ言葉を使う。いわゆる南紀弁だ。私は、まるで近所のおじさんに会ったように、自然に私の実家の串本弁で、彼と話した。懐かしい言葉は海を越え、ここブルームで生きていた。彼もまた、先達の移民たちにあこがれて、ブルームに来たのだという。まるで故郷がよみがえったようなひと時だった。逸志には、ブルームに6人の子供がおり、今後日本に帰る予定はないという。
そうこうするうちに、パールが時間になった!と言い、テレビをつけた。「これを毎日見ているのよ。話の続きが途切れると困るわ。」 すると、日本のNHKが流れ、連続ドラマが始まった。まさに今人気の、杏さんが出ている昭和の戦争時の日本が舞台のドラマだった。今の時代、ケーブルテレビで、日本のドラマも見るのが、日系人のトレンドらしい。パールたちは、日本のニュースも、ちゃんとチェックしていると話した。
最近のブルームでは、オーストラリアの一般チャンネルでも、1日2回、30分程度、日本の番組が流れ、母国の様子を知ることができると、逸志も教えてくれた。
パールは、私がブルームで毎日お世話になった、やはり同じ日系人のアンシアの、叔母にあたる。同行してくれたアンシアは、パールが日系人としての様々な体験を語るかたわらで、「私たちのストーリーは、100年前日本からやってきたお父さんたちから始まるの。るるかも同じね。」と言った。「同じ」という言葉が、私に何かを呼び起こした。
「南さんは、みんなと違う。」「南さんの考えは独特。」「南さんは、南さんだから。」ここまでの人生の中で、友人や多くの周りの人から投げかけられた言葉は、むしろほめ言葉でもあったかもしれないが、私にとっての仲間からの理解は「違う」という言葉に象徴される。私は、いつも、『周りとは違っていた。』。周りと自分が違うということは、決して悪いことではないし、アート活動などをする上では、個性はむしろすぐれている点でもある。しかし、どこかしら孤独で、人とはなじめず、私は私でいいと思っていても、自分の何かが失われているような、さびしい気持ちが、私の胸の片隅に、いつもキラリと突き刺さっていた。
しかしこの、私とは、体型も肌の色も、使う言葉も違う、大声で笑うこの人が、私のことを「同じ」と言った。いや、この人は、私を「同じ」と呼んだのだ。私は、この言葉を聞いて、初めて、自分が何者なのかを感じた。「私にも『同じ』がいる」のだと、魂が喜んだ気がした。日本に生まれ、日本で育ち、日本しか知らない自分の「同じ」は、南半球のこんなにも離れた、見知らぬ大陸にあったのだ。両親は、どんなに気取っても、決して、真髄の日本人ではない部分を持ち合わせていた。母は、オーストラリアの風を受け、父は海を渡って母を見つけ、二人は、日本へ戻ってきたのだ。
日本人をルーツに持つ日系人は、日本人であって日本人ではない。日本人ではないけど日本人だ。この、すきまの小さな風が、いつも私に吹いていたのだと、その違和感に初めて気がついた。
ここには、そんな違いを抱えたたくさんの「同じ」がいることに、私は、心の安らぎを覚えた。ここは、確かに、私の居場所の一つになると。
海を渡った私の祖父や、多くの日本人たちは、たくさんの思いや命をつなぎ、生まれてきた子や孫やひ孫たちは、今、日本語を使わなくなっても、やはり日本にルーツを持ち、イタリアンや、チャイニーズや、マレーシアンや、ヨーロッパ系や、様々な人たちと入り混じってしまったが、確かにかつて日本からやってきた何かを、心の片隅に授けられて、生きているのだ。
私も、その一人である。長く日本にいて、生まれた時から日本にいて、気づかなかった自分の心の、なにか小さなひとかけらを、アンシアが「ほら、これよ。」と、指でつまんで見せてくれた気がした。

数日後、また別のアンシアの親せきである日系人の、ジョアン・シオサキが、「日系人のルーツをたどるのには、コツがあるの。」と、インターネットで調べ上げた、わが村上ファミリーの多量のデータを、束にして持ってきてくれた。
そこには、祖父村上安吉のほか、私の母パール・村上の、赤ちゃんのころ、そして、戦前の10代のころの、オーストラリアの入出国記録もあった。父、南竹一が、フィジーで捕虜となり、オーストラリア本土に送られた記録もあった。たくさんの束は、すべて英語で、私には、読むのにかなり時間がかかりそうだが、こうした記録は、すでに日本の我が家にはないものばかりで、私には、大きなサプライズとなった。
ジョアンもまた、私と同世代であり、逆にまた、日本にあるという故郷への思いを、私に聞かせてくれた。
私は、さらに一人、私と「同じ」を、見つけた気がした。
ブルームは、私の「同じ」が住む街だ。

「これは、私の母よ!あなたのお爺さんが、1930年ごろに写した写真ね。うちは、村上たちと、たくさんのつながりがあったのよ。」と、見せてくれたのは、肌の色が黒く目が神秘的な美しい女性の姿だった。バーバラ・ラインノット、日本人ではない。バーバラの夫が、日本人やチャイニーズの血を引いているらしい。
パールには、6人の子供がおり、それぞれブルームなどオーストラリアで家庭を持ち、孫やひ孫もいる。
第二次大戦中、浜口のファミリーも、オーストラリアの敵国人として、民間人捕虜となった。日本人ではない妻や、その子供であるハーフの子は、オーストラリア人として扱われ、つかまることはなかったが、逆に夫や父を連れ去られ、家族は引き離された。
終戦を待ち、その家族に再び会えたものもいれば、抑留中の死亡などで、再会を果たせなかったファミリーも多い。
そんな過去を乗り越えたおおらかさが、パールにはあった。「私は、あなたのおばさんのことも知っているわ。お母さんの妹にあたる人よね。彼女は、戦後、ブルームで将来の夫に出会い、恋に落ちたのよ。私が証人よ!」と、大声で笑った。
しばらくすると、近所に住む、塩地逸志(しおじ・いつし)が、パールの家に裏口から遊びに来た。戦後、40代でブルームを訪れ、20年以上パールダイバーを務め、今は引退の身だという。逸志も、同じく和歌山県南部出身(浦上)で、私の実家周辺と同じ言葉を使う。いわゆる南紀弁だ。私は、まるで近所のおじさんに会ったように、自然に私の実家の串本弁で、彼と話した。懐かしい言葉は海を越え、ここブルームで生きていた。彼もまた、先達の移民たちにあこがれて、ブルームに来たのだという。まるで故郷がよみがえったようなひと時だった。逸志には、ブルームに6人の子供がおり、今後日本に帰る予定はないという。
そうこうするうちに、パールが時間になった!と言い、テレビをつけた。「これを毎日見ているのよ。話の続きが途切れると困るわ。」 すると、日本のNHKが流れ、連続ドラマが始まった。まさに今人気の、杏さんが出ている昭和の戦争時の日本が舞台のドラマだった。今の時代、ケーブルテレビで、日本のドラマも見るのが、日系人のトレンドらしい。パールたちは、日本のニュースも、ちゃんとチェックしていると話した。
最近のブルームでは、オーストラリアの一般チャンネルでも、1日2回、30分程度、日本の番組が流れ、母国の様子を知ることができると、逸志も教えてくれた。
パールは、私がブルームで毎日お世話になった、やはり同じ日系人のアンシアの、叔母にあたる。同行してくれたアンシアは、パールが日系人としての様々な体験を語るかたわらで、「私たちのストーリーは、100年前日本からやってきたお父さんたちから始まるの。るるかも同じね。」と言った。「同じ」という言葉が、私に何かを呼び起こした。
「南さんは、みんなと違う。」「南さんの考えは独特。」「南さんは、南さんだから。」ここまでの人生の中で、友人や多くの周りの人から投げかけられた言葉は、むしろほめ言葉でもあったかもしれないが、私にとっての仲間からの理解は「違う」という言葉に象徴される。私は、いつも、『周りとは違っていた。』。周りと自分が違うということは、決して悪いことではないし、アート活動などをする上では、個性はむしろすぐれている点でもある。しかし、どこかしら孤独で、人とはなじめず、私は私でいいと思っていても、自分の何かが失われているような、さびしい気持ちが、私の胸の片隅に、いつもキラリと突き刺さっていた。
しかしこの、私とは、体型も肌の色も、使う言葉も違う、大声で笑うこの人が、私のことを「同じ」と言った。いや、この人は、私を「同じ」と呼んだのだ。私は、この言葉を聞いて、初めて、自分が何者なのかを感じた。「私にも『同じ』がいる」のだと、魂が喜んだ気がした。日本に生まれ、日本で育ち、日本しか知らない自分の「同じ」は、南半球のこんなにも離れた、見知らぬ大陸にあったのだ。両親は、どんなに気取っても、決して、真髄の日本人ではない部分を持ち合わせていた。母は、オーストラリアの風を受け、父は海を渡って母を見つけ、二人は、日本へ戻ってきたのだ。
日本人をルーツに持つ日系人は、日本人であって日本人ではない。日本人ではないけど日本人だ。この、すきまの小さな風が、いつも私に吹いていたのだと、その違和感に初めて気がついた。
ここには、そんな違いを抱えたたくさんの「同じ」がいることに、私は、心の安らぎを覚えた。ここは、確かに、私の居場所の一つになると。
海を渡った私の祖父や、多くの日本人たちは、たくさんの思いや命をつなぎ、生まれてきた子や孫やひ孫たちは、今、日本語を使わなくなっても、やはり日本にルーツを持ち、イタリアンや、チャイニーズや、マレーシアンや、ヨーロッパ系や、様々な人たちと入り混じってしまったが、確かにかつて日本からやってきた何かを、心の片隅に授けられて、生きているのだ。
私も、その一人である。長く日本にいて、生まれた時から日本にいて、気づかなかった自分の心の、なにか小さなひとかけらを、アンシアが「ほら、これよ。」と、指でつまんで見せてくれた気がした。

数日後、また別のアンシアの親せきである日系人の、ジョアン・シオサキが、「日系人のルーツをたどるのには、コツがあるの。」と、インターネットで調べ上げた、わが村上ファミリーの多量のデータを、束にして持ってきてくれた。
そこには、祖父村上安吉のほか、私の母パール・村上の、赤ちゃんのころ、そして、戦前の10代のころの、オーストラリアの入出国記録もあった。父、南竹一が、フィジーで捕虜となり、オーストラリア本土に送られた記録もあった。たくさんの束は、すべて英語で、私には、読むのにかなり時間がかかりそうだが、こうした記録は、すでに日本の我が家にはないものばかりで、私には、大きなサプライズとなった。
ジョアンもまた、私と同世代であり、逆にまた、日本にあるという故郷への思いを、私に聞かせてくれた。
私は、さらに一人、私と「同じ」を、見つけた気がした。
ブルームは、私の「同じ」が住む街だ。