手話のボランティア!!ろうの方こそが本気で頑張っている!という事実!!
昨日、世田谷区の手話通訳事情をお話しました。
そして、その通訳者を育てたのは、
地元のろう者のみなさんだということもお伝えしました。
私達は、よく、
手話サークル活動のことを、
ボランティア活動と言ったりすることがありますが、
これについて、ちょっと考えてみたいと思います。
手話におけるボランティアといっても、
いろんな見方ができます。
すこーし手話を学んだ状態でも、
聴こえない人と友達になって、
買い物に付き合ったりして、
簡単な通訳や、ちょっとした情報を伝えることができれば、
聴こえない人と楽しく過ごすことができます。
しかし、これは、友達として仲良く、
また、必要なことは互いに助け合うという範囲のものに近く、
これをボランティアと呼ぶのは、
逆に、友達としての上下関係を生み出す発想にもつながりそうな気がしますので、
ボランティアと呼んでもいいものかどうか、
ちょっと気になります。
手話サークルで、
「聞こえない人はこういうことに困っているんだって」
と教えてもらえば、
それに気づいて、対処することもできるし、
それを、知らない人に伝えることもできます。
これも、まあ、ボランティアとも言えますが、
どちらかというと、「勉強」とか「学習」というものに近く、
自分が積極的に他者に対して働きかけるボランティアとは、
少し意味が違うような気がします。
たしかに、手話を学んだり、
手話やろうの方についての知識を身に着けたりすることは、
とても重要ですし、
それはボランティアの一つのあり方だということは、
できるとは思います。
でも、私たちが、一つ気づいておきたいのは、
その指導をしてくれている人のことです。
手話サークルなどの指導者は、
毎週毎週 熱心に、
教材をそろえたり、テキストを作ったりして、
情熱を注いで、新人を迎えては、
様々な育成活動を行っています。
私は、同じボランティアと言っても、
この指導活動と、学ぶ立場の活動には、
少し違いがあると感じます。
人を教えるということは、
豊かな経験や知識がなければ、出来ないことです。
ですから、この時点で、私は、
手話を学んでいる人より、
指導している人のほうが、
さらに、たくさんのボランティア活動をしていると、
思えてならないのです。
また、それは、
耳の聴こえる手話通訳の先輩であることも多いですが、
耳の聴こえない人自身が、
積極的に指導活動をしているサークルも、
実にたくさんあります。
そんな時、
私はまさに、聴こえない人自身こそが、
自分たちの新しい環境を生み出し、
人として豊かに生きていくために、
地域で、熱く、ボランティア活動しているのだと、
感じずにはいられないのです。
そうした、聴こえない人の活動があってこそ、
世田谷区でも、現在50人の手話通訳士が、
様々な通訳活動を行なっているわけです。
私たちの中には、
「手話を覚えて、聴こえない人の役に立とう。」
「手話を学んで、ボランティアをしよう。」
と思ったことをきっかけに、
手話講習会や、手話サークルなどに、
通い始める人も多いと思います。
しかし、その新人を教えるためには、
多くの先輩や、ろうの人自身の力が必要であり、
まさに、指導者が、新人たちに向け、
一般社会に向け、ボランティア活動を、懸命にしているのだということを、
忘れてはなりません。
ともすれば、私達は、
「聴こえる人が手話を学んで、聴こえない人にボランティアをする」
と思い込んでしまいがちですが、
果たしてこれは、本当でしょうか?
私の知っている限り、
様々な手話サークル・通訳者育成の現場では、
「聴こえない人たちこそが、
聴こえる私たちに、いろんなことを教えてくれるために、
情熱的に活動をしてくれている!」ケースが、数多くあります。
一見、この立場が入れ替わっているのではないかと思われるような活動こそ、
聴こえない人自身からの、
大いなる、社会貢献活動だと私は感じます。
聴こえない人は、私たち聴こえる人に手話や様々な情報を教え、
さらに、同じ聴こえない人たちが、住みよい社会になるよう、
自分たちで、頑張っているのです。
このお話、分かりにくいでしょうか?
あなたのボランティア感、
ちょっと振り返ってみてください。
私は、ここまで、聴こえない人にこそ、
多くのことを教えてもらってきました。
それでも、まだ、
「ボランティア活動をするのは、聴こえる人(健聴者・健常者)だ」
と、言えるでしょうか?
私も、まだまだ、勉強不足で、わからないことがたくさんありますし、
私の考えだけが、すべてではありません。
あなたも、ぜひ、ちょっと、考えてみてください。
私は、
「手話でボランティア活動をするのは、聴こえる人(健聴者・健常者)で、
そのボランティアを受けるのが、聴こえない人(障がい者)だ。」
という一方通行的な考えは、
そろそろ卒業してもいい時代なのではないかと、思っています。
ベランダの花が咲き始めて、ちょっと嬉しい梅雨の1日。
そして、その通訳者を育てたのは、
地元のろう者のみなさんだということもお伝えしました。
私達は、よく、
手話サークル活動のことを、
ボランティア活動と言ったりすることがありますが、
これについて、ちょっと考えてみたいと思います。
手話におけるボランティアといっても、
いろんな見方ができます。
すこーし手話を学んだ状態でも、
聴こえない人と友達になって、
買い物に付き合ったりして、
簡単な通訳や、ちょっとした情報を伝えることができれば、
聴こえない人と楽しく過ごすことができます。
しかし、これは、友達として仲良く、
また、必要なことは互いに助け合うという範囲のものに近く、
これをボランティアと呼ぶのは、
逆に、友達としての上下関係を生み出す発想にもつながりそうな気がしますので、
ボランティアと呼んでもいいものかどうか、
ちょっと気になります。
手話サークルで、
「聞こえない人はこういうことに困っているんだって」
と教えてもらえば、
それに気づいて、対処することもできるし、
それを、知らない人に伝えることもできます。
これも、まあ、ボランティアとも言えますが、
どちらかというと、「勉強」とか「学習」というものに近く、
自分が積極的に他者に対して働きかけるボランティアとは、
少し意味が違うような気がします。
たしかに、手話を学んだり、
手話やろうの方についての知識を身に着けたりすることは、
とても重要ですし、
それはボランティアの一つのあり方だということは、
できるとは思います。
でも、私たちが、一つ気づいておきたいのは、
その指導をしてくれている人のことです。
手話サークルなどの指導者は、
毎週毎週 熱心に、
教材をそろえたり、テキストを作ったりして、
情熱を注いで、新人を迎えては、
様々な育成活動を行っています。
私は、同じボランティアと言っても、
この指導活動と、学ぶ立場の活動には、
少し違いがあると感じます。
人を教えるということは、
豊かな経験や知識がなければ、出来ないことです。
ですから、この時点で、私は、
手話を学んでいる人より、
指導している人のほうが、
さらに、たくさんのボランティア活動をしていると、
思えてならないのです。
また、それは、
耳の聴こえる手話通訳の先輩であることも多いですが、
耳の聴こえない人自身が、
積極的に指導活動をしているサークルも、
実にたくさんあります。
そんな時、
私はまさに、聴こえない人自身こそが、
自分たちの新しい環境を生み出し、
人として豊かに生きていくために、
地域で、熱く、ボランティア活動しているのだと、
感じずにはいられないのです。
そうした、聴こえない人の活動があってこそ、
世田谷区でも、現在50人の手話通訳士が、
様々な通訳活動を行なっているわけです。
私たちの中には、
「手話を覚えて、聴こえない人の役に立とう。」
「手話を学んで、ボランティアをしよう。」
と思ったことをきっかけに、
手話講習会や、手話サークルなどに、
通い始める人も多いと思います。
しかし、その新人を教えるためには、
多くの先輩や、ろうの人自身の力が必要であり、
まさに、指導者が、新人たちに向け、
一般社会に向け、ボランティア活動を、懸命にしているのだということを、
忘れてはなりません。
ともすれば、私達は、
「聴こえる人が手話を学んで、聴こえない人にボランティアをする」
と思い込んでしまいがちですが、
果たしてこれは、本当でしょうか?
私の知っている限り、
様々な手話サークル・通訳者育成の現場では、
「聴こえない人たちこそが、
聴こえる私たちに、いろんなことを教えてくれるために、
情熱的に活動をしてくれている!」ケースが、数多くあります。
一見、この立場が入れ替わっているのではないかと思われるような活動こそ、
聴こえない人自身からの、
大いなる、社会貢献活動だと私は感じます。
聴こえない人は、私たち聴こえる人に手話や様々な情報を教え、
さらに、同じ聴こえない人たちが、住みよい社会になるよう、
自分たちで、頑張っているのです。
このお話、分かりにくいでしょうか?
あなたのボランティア感、
ちょっと振り返ってみてください。
私は、ここまで、聴こえない人にこそ、
多くのことを教えてもらってきました。
それでも、まだ、
「ボランティア活動をするのは、聴こえる人(健聴者・健常者)だ」
と、言えるでしょうか?
私も、まだまだ、勉強不足で、わからないことがたくさんありますし、
私の考えだけが、すべてではありません。
あなたも、ぜひ、ちょっと、考えてみてください。
私は、
「手話でボランティア活動をするのは、聴こえる人(健聴者・健常者)で、
そのボランティアを受けるのが、聴こえない人(障がい者)だ。」
という一方通行的な考えは、
そろそろ卒業してもいい時代なのではないかと、思っています。
ベランダの花が咲き始めて、ちょっと嬉しい梅雨の1日。
この記事へのコメント
なるほどと思います。
おっしゃる通りです。
でもね、1年前の私がそう思えるか7どうか疑問です。
私はJYさんと出会い、瑠霞さんとも出会って、手話をちょっとは勉強し、手話ライブを鑑賞し、オーストラリア報告会にも参加させて頂きました。
JYさんの手話教室には、ろうの先生がJYさんの助手としてついています。
という訳で瑠霞さんが言及している点について思い描くことが可能です。
しかし、1年前の私だったら無理。
具体例をあげて、ヤンワリ瑠霞さんの主張を盛り込まれる方がいいと思います。
感謝いたします。
もし可能だったらなんですが、
「1年前の私だったら無理」のところを、
別の機会にでも、ぜひ教えてください。
または、
「なぜ、1年たったら、
なるほどと思えるような気がするのか」と
いうことでもかまいません。
つまり、手話を始める前と、少し経験した後では、
感じ方が違うかもしれない・・
ということでしょうかね。
多くの手話の先達は、
その壁の向こうに行くために、
たくさんの苦労や、悩みを抱えているように思います。
本当に、ありがとうございます。
良いご意見、うれしく思います。
心から感謝いたします。