手話はろう者からの贈り物

≪手話パフォーマンスきいろぐみ 25周年記念ライブ!
~ きいろぐみWINTER2539!! ≫ 1月17・18日夜
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http://www.kiirogumi.net/croco2015/



「手話はろう者からの贈り物」
~手話パフォーマンスきいろぐみ25周年に寄せて
(手話パフォーマンスきいろぐみ代表 南 瑠霞)

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  2014年は、自分にとって、人生の節目になるようなことがいっぱいあった。

  まだ日本では寒さの残る3月、母の実家のあるオーストラリアに1か月滞在し、祖父の墓参りや、かつてファミリーの暮らしたブルームの町などを見て歩き、熱帯地方の熱い風や太陽や、そこに住む人々の温かい人柄に触れて、ここが祖父母や母の兄弟たちを通して、1分1秒欠けることなく私の人生につながっているのだと、実感して戻ってきた。
  第二次大戦中、両親はオセアニア地域で日系人として暮らしており、オーストラリア軍によって、敵国人として捕えられ、5年以上の間抑留キャンプに留められていた。鉄条網で囲われたキャンプ内は、食料も十分に与えられ、ある意味平穏であったが、それでも、異国での囚われ生活は、厳しい自然の中、過酷なものでもあった。そのキャンプで両親は結婚し兄が生まれ、祖父は亡くなった。広い空と草原の広がる、ユーカリの木々に囲まれたその場所が、我が家の始まりの地となり、今や荒れ果てたその土地に、かつて日系人たち自身が建てた住居や、病院の跡などが残されていた。
  戦争のあの日、捉えられた抑留者たちが、毎朝点呼を取るために招集をかけられたというユーカリの大木は、70年の時を過ぎ、老木となって朽ち、周辺には、まだ若い背の低いたくさんの木が、今まさに手を伸ばそうと、まっすぐに天に向かって立っていた。
歴史の教科書では、長い間政府によって伏せられていた史実が目の前に広がり、それが私たち家族の過去だと実感したのは、まさに、この1年のことである。

  オーストラリアでは、もう一つ、忘れられない出会いがあった。
  1カ月の滞在の最後の1週間を、西海岸のパースで過ごしたことである。私は、その間、毎日、地元のろう学校に通わせてもらった。小学校低学年の子供たちと一緒に、朝から夕方まで、1週間授業を受けさせてもらったのだ。
  クラスの担当の先生は2人いたが、2人とも、もちろん手話の資格を持っており、ろう学校に手話のできない先生などいなかった。校長先生も、カナダとオーストラリアの手話を身に着けた、ろう教育のエキスパートだった。日本のろう学校では、半数以上の先生が手話ができない、または経験の少ない人ばかりだ。ろう学校への配任が決まった後で、実際に聴こえない子供たちと触れ合いながら、手話を覚える先生も少なくない。しかし、オーストラリアでは、ろう学校の先生を目指す人にとって、手話の単位は必須。ろう学校赴任の条件は、まさに「手話ができること」なのである。先生方は、豊かな手話と英語で、絶えず子供たちに話しかけ、子供たちも自由に手話で話しながら、授業が進む。
  クラスには、必ず手話通訳者も配置されている。人工内耳を付け音声で話す子と先生の様子などは、ほかのろうの子たちにもきちんと通訳され、誰もが話題についていける体制が整えられていた。ろう児たちの中には、午後から一般クラスに合流して聴こえる子供たちと一緒に授業を受ける子もいたが、そこにも必要であれば通訳者は同行する。
  そのほか、1クラスには、最低一人、ろう者アシスタントも入っており、絵本の読み聞かせなどでは、ネイティブな美しい手話で、子供たちにその内容を伝え、まるで、映像を見ているかのような情景が教室に浮かび上がっていた。
  1週間の時を共に過ごす中で、“なんと豊かなろう教育か”と、こちらの気持ちまで朗らかにさせられるような日常に、触れさせてもらった。
  オーストラリア西部には、『西オーストラリア言語法』というものがあり、アボリジニの少数言語や、諸外国の言葉、また日本語さえも、必要とする人に補償すると、法的に明記され、その中には手話ももちろん盛り込まれており、人々が様々な言語への理解を寄せているところが、日本とは大きく違うのだと、現地のろう者コミュニティーの人が教えてくれた。

  オーストラリア先住民のアボリジニ社会には、古くから手話も残されているという。狩猟民族である彼らは、動物たちに音もなく近づき、互いが合図を送り合って狩りをすることから、部族ごとの手での会話が発達し現代に伝えられているのだという。
  地域にもよるが、女性は、夫が死亡した時などには、長い間喪に服し、その間音声で話さない習慣があり、そんな時期にも互いは、手話で多くの意思疎通を図るのが、彼らの習わしなのだそうだ。

  古くから手話の伝わる大陸。多民族多言語の国。それが、オーストラリア。そこに生まれた人たちは、多くの言葉の存在を、豊かな恵みとして受け取り、互いに認め合って現代国家を作っているようであった。

  そんな国から、海を渡って再び日本に戻ってきたファミリーの一員として、私が手話に出会ったのは、自然の流れだったのかもしれない。

  大学時代、ろうの学生たちと出会い、「空中に絵を描くような」手話に夢中になり、彼らと毎日授業を受け、遊び、ケンカをする中で、私は、たくさんの表現を覚えた。それは、日系人の娘で、な~んとなく日本の習慣になじめず、微妙に薄紙一枚の違和感を持って育った私に、神様がくれたプレゼントだったのかもしれない。ろうの友人や手話と出会って私は、明らかに変わった。物事を回りくどく表現しない、素直な心で人と触れ合うろうの友人たちの在り方と、それに沿うようなストレートで、豊かな表情を持つ手話が、私の目と心とこの手に飛び込んできたかのようだった。

  私が、手話パフォーマンス活動を始めたのは、それから間もなくのことだ。大阪の大学を卒業し、東京に来て、新たに仲間と出会い、きいろぐみを旗揚げしたのは、今から25年前。あの頃のことは、昨日のことのように覚えている。“四半世紀が過ぎましたね!”と誰かに言われて、ちょっと驚いた!!笑

  手話は、ろう者が生み出した豊かな知恵と伝達手段であり、今や、れっきとした言語として日本各地の条例にも取り上げられ始めている。
  手話はまさにことばであり、ろう者こそがその力強い担い手だ。
  その手話が目の前の空間に舞い、美しい風景を描き始めた時、それはろう者のみならず、多くの聴者をも魅了させる豊かなアートとなる。
  ろう者と手話が、聴者を癒し、励まし、夢を与える。
私は、その最大の癒しをもらった一人でもある。
 この感動を、私たちの手から、あなたに送ろう。大事に両手に乗せるように。ほら、手話がこんなにもやさしい光にあふれて、目の前に浮かび上がっている。


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(ろう者の恩人が送ってくれたシドニー2015年カウントダウン花火)


 ここまで、多くのご協力、応援をいただいた皆様、きいろぐみメンバーの一人一人、ライブハウスクロコダイル、東京都聴覚障害者連盟、渋谷区聴覚障害者協会、世田谷ボランティア協会、そのほか、多くの団体、関係者、そして、私たちの活動を支え続けてきてくださった25年間のファンの皆様に、心より感謝申し上げます。ありがとうございます。

 2015年1月17・18日