秋の短大の授業が始まっています!!


image/2018-10-11T233A283A29-1.jpg

今年も、神奈川県の短大の、手話の授業が始まり、
毎週1時間半、声のない授業を行っています。
(ふたクラスあるので、講師の私は、3時間分ですが。笑)
最初は、板書が多く、私自身も大変なのですが、
3〜4週間もすると、
学生たちは、「目でものを見る」ことに慣れ、
どんどん、授業が読み取れるようになってきます。

声のない授業も、それが普通だと思ってしまえば、
けっこうやれるもの。
「ええーー!!どうしよう??わかるわけないじゃん!声のない授業なんて!」
と、こう思う方向に行かなければ、
身振りも手振りも、人は案外読み取れるものなのです。笑
このことは、もう、10年以上続けている、
この学校の授業で、証明されています。
学生たちは、半年後には、
けっこう楽しく手話で話せるようになるので、
毎年、楽しみに授業を進めさせてもらっています。
みんな、本当にありがとう。

この秋は、そんな学生たちとのやり取りの中で、
嬉しいことが、2つありました。

1つは、手話の歌のこと。
毎年この時期、学園祭が近づく大学では、
手話の歌に挑戦するグループがいくつかあります。
今まで、毎年、
この歌の手話をいきなり作って欲しいと言われ、
ほぼ断っていました。

手話の歌は、日本語の歌を英語にするのと同じ作業が必要で、
そもそも日本語の語順通りの手話がつけられるかもわからないし、
手話で作った文の長さも、日本語の歌詞と比べて長かったり短かったり、
きちんとすぐに音楽にハマるわけでなく、
何度も何度も、単語を差し替えて、
それでも元の意味を崩さないよう、
歌詞の長さを合わせたりしなければならないからです。
しかも、その手話の歌を、
好きなろう者と嫌いなろう者もいるわけで、
それも想像せずに、歌う手話の歌は、意味があるのか?
そうしたことも、できればディスカッションしながら、
作りたいわけで、
「はい作って」と言われて、
その場で作るには、作業内容も、思いを伝えるにも、時間はかかり、
ニコニコ笑って、4〜5分でできるものではないのです。

今年も とあるグループが、同じように、
私に、歌の手話を教えて欲しい。と言ってきました。
それで、同じように、話し、
「少なくとも、この歌詞に合う手話は、
そのまま単に単語を当てはめて作れるものではありません。
自分たちが表現したい歌詞の、
その意味を、きちんとまとめてください。」
と、追い返したのです。笑
そしたらなんと、今までの学生たちは、そこで諦めて、
たいていやってこなかったのに、
その子たちは、1時間したら、また出直してきました。笑
そして、今度は、
「ここは、こうで、ここはこんな意味で、
ここはこういうリズムで、こうやってこうやって・・」
と、全部一生懸命、身振りで説明を始めました。
見てみると、その身振りが、
そのまま歌詞に使えそうなものもたくさんあり、
彼女たちの歌詞の意味のとらえ方が、とても的確だったので、
今年は、ちょっと折れて、
少ない手話単語と、彼女たちの身振りをもとに、
手話の歌詞を提供してあげました。笑
もちろん、それは、
彼女たちの「翻訳(歌詞の意味の捉え方)」がよかったからで、
そして、私の授業が声なしだと理解して、
それでも、伝えようと、
たくさんたくさん身振りを使って説明したからです。

久しぶりに、人の素直な明るさに触れた気がして、
心が動かされました。
聞こえない人と伝え合うって、手話より前に、
こういう「通じ合いたい」という心がとても大切だと
いつも思うのですが、
私たちは、手話の単語を覚え始めると、
逆にこうした、まっすぐな心を忘れて、
自分が下手かどうかとか、この単語どうやるんだっけ?とか、
余計なことに気を取られて、
相手が目の前にいることを忘れがちになります。
コミュニケーションの壁を越えるには、
「通じたいと願う心」しかないのに、
そこを見失ってしまうのです。

この学生たちは、そんなことも思うことなく、
「通じ合うために、
とにかく体もいっぱい動かして、伝えようとした」ところが、
元気で、嬉しかった。
みんなで、こういう気持ちを大事にしたいなと思わせてもらいました。

ちょっと嬉しい授業のスタートになったなと、
窓から秋風が吹いてくるのを感じながら、
心が軽くなりました。

さて、今回の短大では、
嬉しいことがもうひとつあったのですが、
ちょっと、長くなりそうなので、また今度。笑

いつもこのブログを読んでいただいて、ありがとうございます。
この秋も、短大の授業、楽しく頑張りたいと思います。
感謝。