手話通訳に向く人 2019 その2

世田谷区内のとある駅前の花壇の花です。春がしっかりそこまできているのがわかります。
先日の投稿で、手話通訳に向く人の傾向について、ご紹介しました。
1、ものの見方
◯ 自分が通訳に向いていない。と明らかに思っている人
◯ 手話を最初に見たとき、カッコいいとか素晴らしいとか、感じた人
◯ 福祉と言語は別だと考えている人
2、メンタル
◯ 自分の上手い下手はさておき、また明日も学ぼうと思う人。
◯ わからないことがヘコむ材料とならず、その「わからない」ことこそ面白がって知りたいと思う人。
◯ 気持ちの安定している人
3、手話以前にその人が持っている下地
◯ 日本語の言い回しをたくさん持っている人
◯ 絵を描くのがうまい人
◯ 英語など、他の言語を学んだ経験のある人
などが、手話通訳に向く傾向があるなーと思うのが、私の肌の感覚です。
ここで、はっきりお伝えしておきますが、「手話を学ぶ=手話通訳者を目指さなければならない」と思っている人は、愚の骨頂です。出会いとコミュニケーションは、人の心を結ぶ最も大事なものであり、手話もまた一つの言葉として、その心根を忘れてはもはや学ぶ意味を失ってしまいます。
ここが気になる方は、その旨、ブログのこちらに記載しています。ぜひお読みください。
http://minamiruruka.seesaa.net/article/463823394.html
しかし、私は、ここからはっきりと、手話通訳について悩む方々に向き合った、心と技術の話をして行きたいです。なぜなら、通訳は2つの言語を扱うにあたり、それぞれの言語への「理解」をもとに、さらに言葉として話す「技術と能力」が必要だからです。
またこれは、聞こえない友人のお買い物に付き合うとか、一緒に遊びに行ったり 食事に行ったりした場所で簡単な説明をするといった「友人知人としての通訳」のことではありません。
例えば学校の授業で間違えた情報が伝われば、困るのは聞こえない学生。進路にも関わるかもしれません。病院で、医師の見立てや、薬剤師からの指示がゆがんで伝われば、聞こえない人の健康や、ひどい場合には命に関わる場合もあるでしょう。
裁判や警察で、会社の取引で、学校の保護者会で、聴者と同様に情報を得、あらゆる場面で、聴者と同様に自分の意見が述べられ、豊かなコミュニケーションをするためにこそ、通訳が必要な場合は多く、そこでどんな通訳者がつくかによって、聞こえない人の運命が左右されてはなりません。
また、私たちの主に携わる手話エンターテインメントの場面では、「正しい」ことが必ずしも、良い通訳ではありません。もちろん間違えてしまっては、元も子もありませんが、そこから先、情報発信者がそれをどのように伝えたいかによって、言葉遣いは、優しくも厳しくも、強くも弱くも、その趣旨に合わせて表現を変えていかなければいけません。
例えば、話し手が「それでかまいません。」と発言しても、それを伝える語調によって、様々な意味が生まれます。
ケンカごしに、上から目線で伝えられた「それでかまいません。」
にっこり笑って話した「それでかまいません。」
小声でボソボソと消え入るように口にした「それでかまいません。」
これらは、すべて、同じ言葉であっても、裏の意味が大きく違います。そのとき我々は、それをどう通訳すべきなのでしょうか?
通訳者の現場では、こうしたことが日常茶飯事、日々刻々 起こってきます。
こうした場面でも、元気にめげずにしっかりと活動したいとがんばっている現場の通訳者のみなさん。そして、それに続こうと努力している地域登録通訳者・手話通訳士予備軍の皆さん(つまり、今後通訳者として現場を持ってしっかり頑張って行きたいと志す方々)もまた、数多くいます。
通訳に携わる私たちは、力を合わせて、今、何をどう学ぶべきか、真剣に考えるときなのです。
ですから、私は、これらについても、熱く、みなさんと情報交換して行きたいし、ここまでの経験の中で、お伝えできる点は、思いを込めて伝えて行きたいと思います。
そんな中で私がこれから、様々語って行くとき、「南さん、通訳のことばっかり言ってるけど、手話を学ぶ様々な人のこともっと考えてください。手話を学ぶって通訳を目指さなければいけないんですか?」と、質問されても困ります。
それは、明らかに、NOだからです。
「手話を学ぶことは、手話通訳者を目指すこととは全く違うし、そんなことより、出会いと心のつながりはとても大切で、人として最も学ぶ価値も必要も暖かさも熱もあること」だからです。
でも!!本来の手話通訳者の現場では、技術と能力が必要です。
それは、誰もが、骨折の当て木や三角布のかけ方や、緊急除細動器(AED)の使い方を学んで、いざという時、隣にいる人を助けたいと願う心と、その先、実際に無影灯の中でメスを握り人の体を刻んで術をなし、患者の命を救うべく腕を動かす人となることには、隔たりがあるのと同じです。
英語やその他、様々な言語を学んで、その国の人たちと友達になり親交を深めることと、その人たちの言語と日本語の間に立って、通訳をすることもまた、大きな違いがあります。片言でも友達と楽しく時を過ごすことができればそれは人として豊かな場面をいくつも築けますが、その人のビジネスや病気など重要な局面で、2つの言語の間を行き来し、情報や気持ちを的確に橋渡しすることとは違います。
今、実際通訳の現場で、悩んでいる様々な人がいること、それを互いが支え合わなければいけないこと、これは、明らかな事実であり多くの人の願いであり、皆もっともっと通訳について学びたいと思っているのです。
通訳者になるには、通訳者になるための、学びや経験やトレーニングの積み重ねが必要です。そこで、私は、様々な努力を重ねたいと願っている人たちに目を向けたいと思います。そこにはそこの、そこに関わる人の、願いや壁や悩みがあるからです。
手話を知らない方、初心者の方など、手話について知りたいと思う多くの方に、たくさんのことを伝えて行くことも、大事なことですが、私はこれから、通訳についても、たくさん語りたいと思います。
これが、私のいまの気持ちです。
なるほどなーと思う人は、ぜひ、一緒に読んでください。考えてください。
よろしくお願いします。
いつも、このような私のブログにお越しいただき、本当にありがとうございます。