通訳のむずかしさ
通訳のむずかしさ・・と言っても、技術や能力の問題とはちょっと違うお話です。
私は英語が苦手です。それで、様々な場面で、通訳の方の助けを借りることがあります。
能力のある方の通訳は、「なぜ私はこんな簡単なことも喋れないのだろう?」と思うくらい(笑)、シンプルなわかりやすい英語で(なのに私にはそれが出てこない!!再笑)、そしてビシッと通じて的を射ていて気持ちよく、テンポも良くて、相手にもしっかり思いが届き、本当にありがたい。こうした方にこれまで何度も助けられてきました。
そして、こうした方は、実は、とても優れている点が、もう一つあります。
実際の相談や詳細な話し合いの場でなく、食事や観光で談笑しているときや、和やかに交流する場面では、決して、英語がヘタな人の会話に介入してこない!という点です。笑
優れた通訳の方は、当然のことですが、例えば私が、相手のどこを理解していて、何が通じてないかも傍目に理解してくれています。ですから、たとえ私が相手の方と通じていなくても、ひとまず見守ってくれるのです。そして、その状況がわかっている限り、私が何かをつかみたいと四苦八苦して身振り手振りで話しているのを、邪魔することはありません。通じ合いたいのは「私」であり、「意味が知りたいのでなく!相手とつながる」ことを、私が求めていることに、気づいてくれているからです。
そして、筋道が激しくずれたときだけ、笑いながら「南さん、めっちゃ話ずれてる。この人の言いたいことは〇〇だよ。」と教えてくれます。すると、相手も笑い出したりして、その場がますます和みます。笑笑
トンチンカンでも、楽しい!!これがコミュニケーションな訳です。笑笑
もちろん、真剣な商談や、国際理解のための話し合いの時、これはやってはならないことですが、良き通訳者であればあるほど、「場面ごとに通訳の仕方が違う」ということを自然に判断しておられるので、そこは、手話に携わる私たちもとても見習いたいところです。
一方、「英語が少しできる」、または「人の役に立ちたいという思いが強すぎる方」は、逆にこうした判断をしてくださらない方もおられます。
私がちょっと「え?」という顔をすると、「この人、あなたに〇〇って言ってるのよ。」と、親切に声をかけてくれるのです。泣
その時私は、もちろん相手の話がわからない場合もありますが、時によって返事の仕方を考えていたり、相手の話が2通りに取れるので、そのどちらかを改めて自分で聞きなおそうとしていることもあります。でも、その方は、「わからない人には、すぐに通訳してあげなくちゃいけない」と思っているので、即座にアドバイスをしてくれるのです。汗
もちろん、悪気があってのことではないのも良くわかるのですが、「時間がかかっても、自分で頑張って通じ合いたい」と思っている人にとって、これは、ドラマや推理小説の序盤で、ストーリーを知っている人が、先にネタバラシをしてしまったような衝撃を受けます。大泣&笑笑
いろんな方に助けていただいている中で、私はこういうことに出会うこともよーくあります。笑笑
これ、ちょっと夢をこわすもったいない通訳でしょ?笑笑
こうした判断はとても難しいし、実際、語学が苦手な人にとって、通訳はなくてはならない大事なもので、通訳者はとても大切な存在で、いつだって頼りにさせてもらっています。これは、私の正直な気持ちです。
さて、我が身を振り返り、手話の場面。
もちろん、真剣な場面では私も一生懸命通訳させてもらいますが、飲み会や交流会では私はほとんど通訳はしません。皆さん同士が、体当たりで、聞こえない人と対話する方が、喜びもずっと大きくなるからです。初心者でも、「紙に書いたり空書したり、いろんな方法で通じ合えますよ。」と習っているはずの皆さんですから、その手も使えます。そこで、私が間に入って、すぐに「答え」を教えてしまっては、みなさん自身が色々考えたり感じたりする時間を奪ってしまうことになりそうで、私としてはけっこう躊躇します。自分で苦労してたどり着いた答えは、頭ではなく心にこそ残ります。ろうの方と通じ合えた喜びは、一生の自分の宝物になるのです。
だから「本当に通じない時以外は、助けない。」これは、案外大事なことなんじゃないかなと、私は思っています。
聞こえない方についても同じことを思うことが良くあります。
たとえば、飲み屋さん。注文を、聞こえる人がお店の方との間に入ってするのも良いことですが、実は聞こえない人は身振りが得意で、案外飲み物の種類など、むしろ、お酒に詳しくない私が間に入るより、お店のスタッフの方に通じやすい場面も山のようにあります。スタッフの方も、直接聞こえない方の注文が、自分で理解できたりすると「わかった!!OKです。××ですね。」と身振りで返したりして、それで、聞こえない人もどんどん目が輝いてくる。で、ろうの方が、「ジョッキを指差して、指を2とたてれば」、「はい 生(なま)、お二人ですね。」と、お店の方も元気にお返事されたりして、けっこう私は不要ですし、通訳など間に入らない方がよっぽど通じ合えて、そして互いが仲良くなる。笑笑
自分がわざわざ「通訳者なのだから」とか「聞こえて手話を学んでいるのだから」という理由で、がんばって間に入り続けるより、「当人同士」はずっと豊かに、楽しく語り合え、通じ合えるのだ!と、肌で感じることがよくあります。
こうなれば、聞こえない人にとって、「通訳がいなければお店にいけない」ということもなくなり、「あの店なら通じ合える」という場所が、どんどん広がり、結果としてこちらの方が、よほど豊かにバリアフリー!!
「友達」が増える!ってこういうことなんだと、何度となく、様々な場面で、感じる手話人生です。笑
こう考えると、「通訳者は、当人同士の邪魔をしない」というのも、場合によって「大切なマナー」なのではないか?と思うこともよくあります。
時々、飲み会などで、「あの人手話がうまいのに全然通訳してくれない!冷たい。」と言っている声を聞くことがあります。
でも、その冷たいと見えるその人の心は、実は熱い!かもしれません。笑
良い通訳者であればあるほど、逆の意味で「通訳しない」という選択をされていることも多いように思うのです。
少なくとも私は、英語で、けっこういろんな意味で苦労しています。「待って!!通訳しないで!」と叫べぶこともよくあります。笑 とりあえず「できれば自分で頑張ってみたい(結果、最後は助けてもらうことの方が多いですが!笑 ていうか、けっこうできません。助けてください。ごめんなさい。私が言いすぎました。汗汗)」と思うタイプなので、手話の場面でも、通訳のあり方、けっこう気を使います。笑笑
通訳って、場面で対応を変えなくてはならない場面も多い。
これ、難しいですよね。
それで、今日のタイトルは、「通訳の難しさ」としてみました。
あなたはどう思いますか?
今年の桜は長持ちで、世田谷は、この土日もこんな桜が咲いてました。今日もいい天気。
花見の席では、私は英語でも通訳は頼らないし、手話でも通訳はいたしません。笑
言葉が少しくらい通じなくても、身振りも手振りも使って、互いに頑張って当人同士が一緒に楽しむ。そして友達になる。それがコミュニケーションの魅力だと思います。