コロナ〜東京に暮らす者として思うこと
20200627
5月中旬からつい先日まで、1ヶ月あまり、実家和歌山県串本町に行っていました。
コロナ疎開をしたわけではありません。
母の介護のための預金が地元にあり、これまで自由に、自分のタイミングで帰省して管理をしていたお金が、県を超えての移動自粛を求められ、3月からできなくなりました。これにより、母の入っている施設の支払いが滞ってしまったのです。大汗
もちろん、事情を話して待ってもらってはいましたが、それにも限度があります。
また、実家自体、高速道路建設により、移転を求められており、90代の母には対応できず、実家の片付けをできるのが私だけであるにもかからず、和歌山に入れず、ことがどんどん遅れていました。遅れは著しく、ゴネてもいないのに(汗)、立退きが進まず、手続きの都合上、たった2軒残った家のうちの一軒に、我が家がなってしまっていたのです。
母のこと、家のことの一切がストップしたまま、刻々と時がたち、すべてのものに「待ってくれ」と言い続けるのも限界が来ていました。
コロナで、仕事自体が減って時間ができても、肉親に会えない!
これは、ゴールデンウィークも含め、全国の多くの方にとって、大きな悩みになっていたものと思います。
大変でしたね。
お金や様々な手続きを抜きにしても、実際今回、私は、母には、あのテレビでよく見る“ガラス越しの対面“しかできませんでした。
施設の方が、母を部屋から車椅子で玄関近くまで連れてきてくれ、私は、大きなガラスの外から中を覗き、互いが手を振ったのです。
「まあ、娘が来ている」と、にっこりした母の顔は、近くて遠く、今回ただ一度の面会となりました。
現地では、まだ、直接介護に携わる人以外、ケアマネージャーさんなど福祉職の方も一切施設には入れなかったのです。

そんな私が、どうやって、実家に戻ったのかというと・・・
感染が広がる東京(関東)地区からの移動は、地方では「海外帰国者と同じ扱い」となった所も多く、私の実家の町へも、保健所の届出を行なって、確認を得た上で、帰省することになりました。
ー・ー・ー・ー・ー
1、県の保健所に電話。4つのチェックを受ける。
◯ 周りに感染者がいないこと
◯ 熱がないこと
◯ 味覚・臭覚に異常がないこと
◯ 下痢などお腹の症状がないこと
2、1がクリアーしたら、およそ2週間の自粛生活を送り、そのあと町に出てもよい。
3、地元の町の管轄の保健所にも、私の所在・名前が、県から連絡が行く。
ー・ー・ー・ー・ー
この3つが、確認された上、私は、町での滞在が許可されました。
5月の時点では、飛行機も、コロナ感染症防止のため欠航。
また、飛行機や新幹線は、密閉空間で、自分が感染源にならないため、また、誰かから移されないようにするため、断念。
自分の車で、高速道路を利用して、移動しました。
車の場合、私は、1泊2日かけて帰省するのが通常でしたが、もちろん途中のホテルや温泉には泊まれません。今回は、夜に車中一泊。(これは、意外にも、キャンプ気分を味わえ、楽しかったことは事実。汗笑)
感染者がゼロの町に、私が、コロナを持ち帰るわけにはいきません。
ここからの自粛で、
最初の5日間、私は、東京から車で持ち込んだ食料で凌ぎ、そのあと、地元のお知り合いの差し入れなどの協力を得て(玄関先においてもらい、接触せずに、受け取る)、その間に、実家の片付けのみを続けて、時を過ごしました。
この過程では、今の時期の多くの皆さん同様、「家(実家)が、大いに片付いた!」ことは、間違いありません。笑
高速道路の立ち退きに、すぐに対応できる状態にまで状況は整いました。家の中の、家族でしかわからない、父や母のガラクタ同様の宝物の見分けや、貴重品、また、仏壇などの整理を行うことができたのです。
助けて下さった周りの皆さんに、心から感謝です。地元の多くの方が、相談に乗って下さったことで、やらなければならないことが着々と進んで行きました。
自粛が終えた6月、私は、ようやく町に出て、様々な手続きや、会わなければならない人々に会うなど、現地での活動をスタートさせました。
そこからは、マスクをつけ、相手に近づき過ぎず、多くの方と同じように、“今の状況の普通“の状態を手に入れ、仕事も、また地元探索も行うことができるようになりました。
力を貸して下さった多くの皆さんに、心から感謝いたします。本当にありがとうございました。

高速道路の立ち退きについては、この冬に家の解体などが行われますが、おそらく、秋冬には、またインフルエンザやコロナが広がる季節になってしまいます。東京からの移動は、行なってはならない!と判断しています。私が帰省することなく、業者にお任せするしかないのが実状です。
両親が、歳をとっての終の住処にと望み、暮らしたその家が、主人(あるじ)不在のまま取り壊され、更地になってしまうであろうことを思うと、胸が締め付けられる思いです。
これも、コロナとの、一人一人の私たちの、小さな戦いや悲しみや、なんとも言えないこの気持ちの、ひとかけらなのだと、感じています。

この1ヶ月で、地元の方がいかなる思いで、私を東京へ送り出してくれているかも知り、ほぼ田舎を捨てるように出てきた自分が、いかに、地元の方々に守られ、そのおかげで、東京で様々な仕事や活動ができていたかも、肌でわかりました。
私が、地元を離れ、1人でなし得てきたと思っていたことの9割以上は、こうした私を送り出してくれた人々の支えそのものであったことに気づかされ、価値観が大きく覆される思いを抱きました。
地方から、東京など都会へ出るものは、どうあればよいか? 答えは一人一人、違うとは思いますが、私にとって、実家の町は、明らかに、私の人生の家なのであり、その人々の心は私につながり、「ああ南さん、元気?」「あら、帰ってきているの?」とかけてもらう言葉は、単なるあいさつではないのだと、実感しました。
「ありがとう」だけでは伝えきれるはずもない、感謝の思いというものが、人の心には、あるのだと知った 2020年初夏。
私たちとは、皆、生きているというより、多くの人の力によって生かされている存在なのだと、気づかされ。
5月中旬からつい先日まで、1ヶ月あまり、実家和歌山県串本町に行っていました。
コロナ疎開をしたわけではありません。
母の介護のための預金が地元にあり、これまで自由に、自分のタイミングで帰省して管理をしていたお金が、県を超えての移動自粛を求められ、3月からできなくなりました。これにより、母の入っている施設の支払いが滞ってしまったのです。大汗
もちろん、事情を話して待ってもらってはいましたが、それにも限度があります。
また、実家自体、高速道路建設により、移転を求められており、90代の母には対応できず、実家の片付けをできるのが私だけであるにもかからず、和歌山に入れず、ことがどんどん遅れていました。遅れは著しく、ゴネてもいないのに(汗)、立退きが進まず、手続きの都合上、たった2軒残った家のうちの一軒に、我が家がなってしまっていたのです。
母のこと、家のことの一切がストップしたまま、刻々と時がたち、すべてのものに「待ってくれ」と言い続けるのも限界が来ていました。
コロナで、仕事自体が減って時間ができても、肉親に会えない!
これは、ゴールデンウィークも含め、全国の多くの方にとって、大きな悩みになっていたものと思います。
大変でしたね。
お金や様々な手続きを抜きにしても、実際今回、私は、母には、あのテレビでよく見る“ガラス越しの対面“しかできませんでした。
施設の方が、母を部屋から車椅子で玄関近くまで連れてきてくれ、私は、大きなガラスの外から中を覗き、互いが手を振ったのです。
「まあ、娘が来ている」と、にっこりした母の顔は、近くて遠く、今回ただ一度の面会となりました。
現地では、まだ、直接介護に携わる人以外、ケアマネージャーさんなど福祉職の方も一切施設には入れなかったのです。

そんな私が、どうやって、実家に戻ったのかというと・・・
感染が広がる東京(関東)地区からの移動は、地方では「海外帰国者と同じ扱い」となった所も多く、私の実家の町へも、保健所の届出を行なって、確認を得た上で、帰省することになりました。
ー・ー・ー・ー・ー
1、県の保健所に電話。4つのチェックを受ける。
◯ 周りに感染者がいないこと
◯ 熱がないこと
◯ 味覚・臭覚に異常がないこと
◯ 下痢などお腹の症状がないこと
2、1がクリアーしたら、およそ2週間の自粛生活を送り、そのあと町に出てもよい。
3、地元の町の管轄の保健所にも、私の所在・名前が、県から連絡が行く。
ー・ー・ー・ー・ー
この3つが、確認された上、私は、町での滞在が許可されました。
5月の時点では、飛行機も、コロナ感染症防止のため欠航。
また、飛行機や新幹線は、密閉空間で、自分が感染源にならないため、また、誰かから移されないようにするため、断念。
自分の車で、高速道路を利用して、移動しました。
車の場合、私は、1泊2日かけて帰省するのが通常でしたが、もちろん途中のホテルや温泉には泊まれません。今回は、夜に車中一泊。(これは、意外にも、キャンプ気分を味わえ、楽しかったことは事実。汗笑)
感染者がゼロの町に、私が、コロナを持ち帰るわけにはいきません。
ここからの自粛で、
最初の5日間、私は、東京から車で持ち込んだ食料で凌ぎ、そのあと、地元のお知り合いの差し入れなどの協力を得て(玄関先においてもらい、接触せずに、受け取る)、その間に、実家の片付けのみを続けて、時を過ごしました。
この過程では、今の時期の多くの皆さん同様、「家(実家)が、大いに片付いた!」ことは、間違いありません。笑
高速道路の立ち退きに、すぐに対応できる状態にまで状況は整いました。家の中の、家族でしかわからない、父や母のガラクタ同様の宝物の見分けや、貴重品、また、仏壇などの整理を行うことができたのです。
助けて下さった周りの皆さんに、心から感謝です。地元の多くの方が、相談に乗って下さったことで、やらなければならないことが着々と進んで行きました。
自粛が終えた6月、私は、ようやく町に出て、様々な手続きや、会わなければならない人々に会うなど、現地での活動をスタートさせました。
そこからは、マスクをつけ、相手に近づき過ぎず、多くの方と同じように、“今の状況の普通“の状態を手に入れ、仕事も、また地元探索も行うことができるようになりました。
力を貸して下さった多くの皆さんに、心から感謝いたします。本当にありがとうございました。

高速道路の立ち退きについては、この冬に家の解体などが行われますが、おそらく、秋冬には、またインフルエンザやコロナが広がる季節になってしまいます。東京からの移動は、行なってはならない!と判断しています。私が帰省することなく、業者にお任せするしかないのが実状です。
両親が、歳をとっての終の住処にと望み、暮らしたその家が、主人(あるじ)不在のまま取り壊され、更地になってしまうであろうことを思うと、胸が締め付けられる思いです。
これも、コロナとの、一人一人の私たちの、小さな戦いや悲しみや、なんとも言えないこの気持ちの、ひとかけらなのだと、感じています。

この1ヶ月で、地元の方がいかなる思いで、私を東京へ送り出してくれているかも知り、ほぼ田舎を捨てるように出てきた自分が、いかに、地元の方々に守られ、そのおかげで、東京で様々な仕事や活動ができていたかも、肌でわかりました。
私が、地元を離れ、1人でなし得てきたと思っていたことの9割以上は、こうした私を送り出してくれた人々の支えそのものであったことに気づかされ、価値観が大きく覆される思いを抱きました。
地方から、東京など都会へ出るものは、どうあればよいか? 答えは一人一人、違うとは思いますが、私にとって、実家の町は、明らかに、私の人生の家なのであり、その人々の心は私につながり、「ああ南さん、元気?」「あら、帰ってきているの?」とかけてもらう言葉は、単なるあいさつではないのだと、実感しました。
「ありがとう」だけでは伝えきれるはずもない、感謝の思いというものが、人の心には、あるのだと知った 2020年初夏。
私たちとは、皆、生きているというより、多くの人の力によって生かされている存在なのだと、気づかされ。