「聞こえる」と「聞こえない」は反対語ではない

20210212

手話を話す時、ネイティブサイナーという言葉がよく出て来る。
ざっくり言うと、母語として、ナチュラルに手話で話す(サインをする)人のことだ。
日本で言えば、日本語音声に手話単語を添えて表現する音声対応手話でなく、「日本手話」と言われる独自の文法を持った(しかもそれは空間的・視覚的である)言語を話す人と言う意味でもある。

手話には、「手真似だ」「言語ではない」とみられ続けていた時代から、それを乗り越えて、各地に手話言語条例が広がっていくまでの、明治から現在の平成・令和までに至る、大きな流れがある。
その中で、手話は、今、言語として次第に多くの方々に認知されつつあるに、至っている。
また、言語への理解は、聞こえない・ろう者への理解の歴史といってもいい。

かつて、ろう者は、「言葉が通じない」とみられており、言葉が通じないゆえに、「知能も低いかもしれない」とみられる場合も多かった。(実際には、そうではないが、多くの人が、言葉が通じないことから、聞こえない人をそのように想像し、その偏見が多くの人に広がっていたのだ。)

手話は、ある意味、異文化・異言語であり、語順や物事の発想自体も変わってしまう。

ちょっと角度は違うが、かつて、私が目の悪い友人に、「あなたの名前は、たかばやしさん。これは、漢字でどう書くの?」と尋ねた時、その友人は「え?僕は生まれた時から漢字を見たことがないので、よくわからないけど、<たかは、鳥の鷹!高い低いの高いではない。>と説明するようにと、人に教えてもらいました。これで、あなたには、意味が通じますか?」と、逆に質問されたことがある。
なるほど!!目で見ることに重きをおかず生活している人には、漢字の概念がないのか!!
これは、ある意味、大きなカルチャーギャップだった。

これと同様に、聞こえる・聞こえないにも、文化的違いがある。
あるろう者の演出家に、「今度映画を作る企画があるのですが、聞こえる人には、BGMというムードを盛り上げるための音楽がありますよね。実際には、これは、一緒に組む聞こえる演出者がサポートしてくれるので、心配はしていません。しかし、前もって、これについて少し理解したい。BGMは、目で見ると、どんな感じですかね。いろんな人の歌などをテレビで見ていても、あまり動かず表情と声だけでうたている人も、AKBやジャニーズのように、踊りながら歌っている人もいる。この人たちの動きや、そこにある光などを比べていれば、音楽の状態もわかるのでしょうか?」と、聞かれたことがある。

「・・・・・」

私は、彼の質問に、どう答えていいかわからなかった。いわゆる音楽アーティストたちは、リズミカルな歌も、見た目におとなしく歌うことはあるし、アイドルたちも、ある程度踊りからイメージを伝えてはいるが、これが音楽の全てなのだろうか????照明もまた、確かに曲調などの変化やイメージを表現していることはあるが、それが、音楽の代わりになっているかは、わからない。むしろ、音楽のイメージをより豊かに表現するために、また、アーディストを引き立てるために演出されているものであり、音楽そのものではないように思われる・・・

ここで、私たちは、なるほど!と、「聞こえない人に音楽を伝えるにはどうしたらいいか?」と言う発想に陥りがちだが、私は、この瞬間、あることに気づいた。
彼は、聞こえない。私は、聞こえる。
つまり、彼は、音楽が「ある」とは何か?と言う、最も根源的なことを、私に尋ねていたのだ。

私たち聞こえるものが、強者・多数派の理論から、「音楽は何かを聞こえない人に伝えたい」と願うことは、ある意味、優しさであり、人として手を取り合うために大切な視点の一つかもしれない。しかし、彼の質問は違う!
「あなたたちが聞いている音や音楽。それはなんなのか?」と言う問いかけだ。

音という概念があるのかないのか?(それは先程の、漢字の概念を持たない目の見えない友人もしかり。)
音の概念の中でしか生きたことのない、聞こえる私には、それに答えることは、無限大に難しく、まさに虚をつかれた質問だった。

私は、この時、素直に、彼に、そう答えを返してみた。
「あなたの質問は、音楽というものの存在を問う根源的な問いかけのようだ。今、私にこれを答える術は思いつかないが、あなたの質問こそ、【聞こえるとは何か?聞こえないとは何か?】という、シンプルであり重大な質問のように思う。これは、人に人生を問う、重要な投げかけだ」

その時、彼からは、「なるほど。あなたに質問してよかった。ありがとう」という返事が来た。
私たちは、これ以上、このことを話していない。
私は、この問題に、死ぬまで答えられないようにも思う。

「BGMというムードを盛り上げるための音楽がありますよね。」
そう。それは、私たち聴こえるものの耳に、聞こえ、心情をも揺さぶる。
彼の質問は、「それはなんですか?」という質問だった。

私は、聞こえるものとして、この問いに応えたかったが、答えようとしても答えられず、「ある」と「ない」は、あらゆる側面において、「反対語ではない」のだと、肌で感じた一瞬だった。

「聞こえない」は、「聞こえる」の反対語ではない。私たちは、多くの場合、自分たちの聴こえるを常識に、「相手がその反対にある」と、思い込んでしまう。
文化の違いは、人の常識を揺るがし、時に反発を生み、仲違いが起き、大きな驚きとなって私たちの前にやってくる。

そんな日々の中、私は、ろう者の友人たちのそばにいて、手話という言語に向き合っている。


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