佳子様の手話

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手話に、音声対応手話(多くの国でこのタイプの手話が存在する/日本では日本語対応手話、このほか手指日本語と呼ばれることもある。)と、日本手話(もちろん、各国には自国のネイティブの手話もある)の、大きく分けて二種類があるのを知っているだろうか。
手話という言語にまつわる仕事をし、様々な方々にお会いする中で、最近は「佳子様の手話について教えてほしい」と、新聞やテレビなどから、時々問い合わせをいただく。
多くの場合、初心者の記者の方には、音声対応手話と日本手話についてからお話ししなければ通じにくい。

「音声対応手話」とは、日本で言えば「日本語を話しながら、それに合わせて単語を並べていく手話。頭の中で考える言葉が日本語ベースで、手話単語をそれに添えて表現する」ものだ。だから、頭の中の文法は日本語そのものであり、手話は単純にその語順に並んでいる。ここで誤解を生じないように添えておくと、このタイプの手話を、音声付きで話そうが、声を消して話そうが、頭の中の日本語に手話単語を付けている時点で、「音声対応手話」である。また、これを”日本語と文法が同じ手話”と表現するのも、語弊がある。あくまで日本語を話しながら、それに沿って手話単語を並べているだけなので、その手話自体に”文法がある”とはいいがたい。

一方「日本手話」は、ろう者の中で生まれ育ち広がってきた「日本語とは全く違う文法形態を持つ別言語」。ろう者のネイティブな言葉である。これを母語に使うということは、もちろん頭の中自体、空間を操る立体的な文法構造を持つ「(日本)手話」で発想し考えているということになる。(頭の中の言語文法も、日本手話の法則で成り立っているということだ。)

ここでまた、誤解のないようお伝えしておくと、日本手話だからと言って「口形が付かない」と考えるのは、間違いである。個人の名前や社名・場所など、固有名詞などには、多くの場合口形が付くし、現代社会に多い外来語やカタカナ語も、そのまま指文字にし口形もつけることはよくある。このほか、動詞に「パ」や「う」をつければ、過去形や未来形にもなる。手話では口形も文法の一部となることが多いので、「口形はつく!」これも、多くの初心者が気付かない点なので、記しておきたい。

さて、ここまで話すと、
「佳子様の手話は、このうちどっちなのですか?」とよく、尋ねられる。
「佳子様は、このどちらも、使い分けておられます。音声対応手話で話す難聴者・児には、音声対応手話で。母語が日本手話のろう者・ろう児には、日本手話で。その場で、切り替えて返事などをされています。通常、専門的な複雑な会話でない限り、通訳者も頼ってはおられません。」
「え?通訳なし?手話の使い分け?佳子様って、すごいのですね。」
「はい。そして、一番すごいのは、つまり!それを相手に合わせて切り替えられるということは、話し相手の手話を、しっかり意味も背景もその場で理解し、読み取っておられるということです。」
「おお~!!」

「手話を学ぶ方なら、皆さんお分かりかと思いますが、勉強中の人にとって、表現はある程度自分の中で考えることを表すことができますが、突然相手が何を言うかは相手の発想次第です。話し出すまで、何が出てくるかわからない。それを、その場で通訳なしで読み取っておられるのですから、そこが、すごいのです!!」

「なんと!!そこまで。。。では、最近よく佳子様が、公式の場で、音声を消した手話をされていますが、、、これはやはり、何か意味があるということですか?」

「はい。これは、長きろう運動の流れをくんで、佳子様がご自身で納得されて、その手話を選んでおられるということだと思います。
以前の佳子様は、公式のごあいさつの場などで、声で話す『音声対応手話』を使ってこられました。しかし令和に入り、ここ数年、手話での公式コメントから声をなくされました。その代わりに、読み取り通訳を付けているのです。ではなぜ、わざわざ読み取りをつけてまで、ご自身の声を消されたのか?という点に、行きつくと思います。

長い間、多くの人は、音声につけた手話(日本語対応手話)を『(本来の)手話』だと思い込む傾向がありました。実は、これはろう者の歴史の中で『口話』や『音声』を重視し、【聞こえる人に近づける】という教育がなされてきた時代のことです。これが、今一歩進んで、『ろう者にはろう者の【れっきとした言語】がある【それが自分たちの母語だ!】』と、当事者自身が、しっかりと意志表示する時代に、変わってきたことを汲まれての、判断だと、私は考えています。

その『ろう者の言語である日本手話を、大事にメッセージしたい』という姿勢のあらわれが、現在の佳子様の表現につながっていると思います。そして、もちろん佳子様の話し方は、音声対応手話から声を消したものではなく、明らかに、独自の文法を持つろう者のネイティブな『日本手話』を学び目指し、大切に扱いたいという意志が伝わってきます。」

「なるほど!そんな歴史の流れも、理解して?」

「そう思います。だから、佳子様の手話は、皇室の一員だから何かしなくては、とか、ちょっと手話に触れておきたいとか、そういうレベルのものではないと思います。『ご自身が、理解したい!そばにいよう!!』とお決めにならなければ、行きつかない位置におられると感じます。全日本ろうあ連盟の非常勤職員になって籍だけ置いているのではない!『思い』のようなものが、伝わってくるお姿ですね。」

「若い佳子様が、そのようにされているお姿を見て、ろうの方や手話関係者は、どのように感じてますか?」

「すべての声を代表することはできませんが、私は、これは手話や聞こえない人に対する大いなる励ましだと感じます。若い方の先頭に立ってこうしてメッセージしようという意志を示してくださる方がいるのは、ろう者や手話で活動する多くの人にとって、一つの道しるべになると、確信します。」

「なるほど。それから、多くの手話関係者にお話を聞くと、佳子様の手話がきれい。丁寧という声をよくお聞きします。南さんは、どう思いますか?」

「私も、佳子様の手話は、ていねいで、きれい!だと思います。人は自信のない言葉、思いのない言葉の場合、とかく文末を濁したり、小声になったり、中途半端な表現になってしまうように思います。佳子様の手話には、それがありません。『これが私の学びたい言葉だ』「この手話で思いを伝えたい』という信念があり、さらに言葉の向こうに『聞こえない人』を見ていなければ、あのような表現にはならないと思います。『伝えたい』から丁寧にきれいになる。こういうことではないでしょうか?ステキなことですね。」

・・・こんなお話を、最近は、いろんな方とさせてもらっています。
その中の一言を、このGW 2025年5月4日の読売新聞に、南のコメントとして拾っていただきました。

様々な立場の様々な人が、思いを込めて手話という言葉、つないでいきたいですね。
感謝。


※南の佳子様に関するコメントは、
の投稿にも。ぜひ、読んでくださいね。